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東京で、日本代表が、団体球技で、金!

熱戦つづく東京2025デフリンピック。競技日程としては最終日となる25日、またも日本に夢の報せが届きました。東京の人々の前で、日本の代表が、世界の金メダルを、団体球技で獲る。しかも女子バスケ、女子バレーと2種目も。「球」かどうかは議論の余地があるかもしれませんが、バドミントン混合団体でも日本が金メダルを獲得し、男女サッカーも敗れはしたものの見事な銀メダルと、素晴らしい盛り上がりの競技最終日となりました。

特に女子バスケの決勝・日本VSアメリカ戦は激熱の展開で、これが何リンピックであろうが見たものを熱狂させるような試合でした。第4クォーター残り1分、世界のバスケ超大国アメリカに対して4点リードしていた日本が、残り30秒で2点差に詰め寄られ、あと30秒ボールキープすればいいという返しの攻撃でダブルドリブルを取られてアメリカにボールが渡ったときには真剣に頭を抱えましたし、その後アメリカのシュートが外れてボールの奪い合いになったときに、アメリカのファウルで日本にフリースローが与えられたときには大きなガッツポーズも出ました。

しかも、そこで得たフリースローを日本が2本決めて残り6.7秒で再び4点リードしたのに、アメリカはすぐさまスリーポイントを決め返して残り1.6秒で65-64の1点差に再び詰め寄ります。アメリカとしては、ここでファウルゲーム(わざとファウルする)を仕掛けて日本にフリースローを打たせ、残り1秒とかで最後のシュートを放つ、そういう狙いになるわけです。日本がフリースロー2本決めても、アメリカがスリーポイント決めれば同点になるという計算のなか、アメリカはラグビーみたいなタックルでファウル与えにきますし(アンスポーツマンライクファウルでは?)、日本はそのフリースローを何と2本とも外しよりますし、情緒が忙しいの何の。最終的に、残り0.9秒で日本のフリースロー2本目が外れたあと(これがまた真っ直ぐアメリカの選手にリバウンドがおさまるという!)、アメリカはタイムアップまでにシュートを打つに至りませんでしたが、この最後の最後の大詰めで「デフリンピックではブザービーターのこと何て呼ぶんですかねぇぇぇ…!」となったのは、驚きと新鮮さと発見に満ちた大会の印象的なひとコマになりましたよね。仕事を忘れて凝視しました!

↓最後の1分だけでもいいんで見ていってくださいね!




こうして熱く楽しいデフリンピックの競技が終了したわけですが、いろいろ「思ってたのとは違う」を感じる日々でした。全体としてすごく感じたのは、SNSなどでの思いがけない不満の多さでした。「聴者 ろう者」などで検索すると、このデフリンピックの至らなさであったりを厳しく指摘するような声が多数見つかると思います。喜びに満ちた祝祭になるかと思いきや、何か真逆の、喜びというよりは憤りとか失望に近いような穏やかならざる反応が、むしろきこえない・きこえにくい人の側から多数あることに戸惑いました。

まぁ実際、ご指摘のすべてが真実かどうかはさておき、状況について音声アナウンスしかない場面とか、字幕の表示が上手くいかずにヘンな言葉になっている場面とか、手話通訳者や案内表示が少なくて誘導が十分ではない場面とか、公式サイトの作りがわかりづらく情報を得るのがいろいろ難しいだとか、至らない部分があったのは事実だろうと思います。ただ、それについて僕などは、マイナースポーツの現場ではよくある程度の話と、「公式サイトがあるだけマシ」「試合状況は自力で理解するもの」「入口の看板があればそれでいい」くらいに受け止めていたもので、そこまでの憤りや失望が噴き出す話なのかなと不思議に思っていました。

それがひとりやふたりであれば「はぁ」と思って受け流すのですが、受け流すのは難しいほど、そういった反応が数多く見受けられるにしたがって「何かコッチの感じ方が違っているんだな」と思いながら、それが何なのかよくわからず、楽しみつつ考えておりました。いまだよくわかってはいないので想像の範囲でしかないのですが、いつしかこれはきっと「蔑ろにされてきた」ことへの根深い憤りがあるのだろうなと思うようになりました。

きこえない・きこえにくい人の苦労や不自由は僕にはわかりませんが、聴者側の社会に対する想像としては「補聴器があれば聞こえるんですよね」「見えるぶんには何とかなりそう」「イヤホンで爆音ロック聴いてても暮らせるし」みたいな総じて軽い受け止めなんだろうなと思います。メガネやコンタクトの人をことさら「視覚障がい」とは思わない感じの、クチ悪く言えば何とかなるだろうと「舐めてる」感が聴者側にはあるんだろうなと。

そして、実際何とかしている人も多いのでしょう。この大会にも陸上男子円盤投げの湯上剛輝さんのように、日本記録保持者&世界陸上代表という全員参加のなかでもトップに立つ選手もいましたし、パリ五輪に出場したという選手もいました。コーチングなどで不自由があったとしても、個人種目であれば十二分に競技力を開花させられるということも、聴者側がきこえない・きこえにくい人の不自由を軽く扱う「舐めてる」感を助長するのだろうと思います。

その軽く見ているところは、視覚の障がいがある人や手や足を失った人への対応とは違って、ある意味で「マジョリティのなかの一部」として、きこえない・きこえにくい人を取り込んでしまっているのかなと思いました。社会がサポートしていく必要がある相手だとか、彼らが情報を得るための仕組みを最初から想定しておかなければいけないだとかの意識が欠けたまま、社会は運営されてしまっているのかなと。「見えない人」のことはわりと初手から考えるくせに、「きこえない・きこえにくい人」のことは最後まで考えてなかったりするよね、という。

たとえば「この会場で今災害が起きたらどう知らせるんですか?」と問われたとき、災害の発生や避難経路を伝えられるのかアヤしい瞬間はあったなと思います。視覚的な表示が充実した社会ではあるけれど、とっさのときに頼るのは音声的な伝達ですものね。何かあったとき緊急アナウンスはすぐ出せるでしょうが、モニターに同じことを出す準備があったのかどうか、トイレで踏ん張っている人に知らせる術はあったのかどうか、それをリアルにチェックする機会がなかったことは幸い中の不幸だったかもしれないなと思います。何もなくてよかったけれど、もしもそこに問題点があったとしても気づくチャンスがなかったなと。いやホントに、まったくきこえません、英語わかりません、ひとりで来てます、みたいな人には、どうやって「災害発生」は伝達されたんでしょうね…?赤ランプでもあればパカパカ光らせれば何事か起きたとは分かってもらえたと思いますが。

↓モニターに「災害発生」「Disaster occurs」とかって出たんですかね…?
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音声翻訳字幕が機能していれば何とかなる的な…?

でも字幕装置ない部屋まで行ったら、そこからはもうわからなくなりますよね…?

サイレンが聞こえない人がトイレで15分踏ん張ることとかあり得ますよね…?

係員が人力で探して手話で誘導…?あるいは「めいめいの判断」…?



マイノリティとしてはっきり認識されることもなく、マジョリティのなかに組み込まれたまま日常的普遍的な不自由を自助努力で何とかさせられる暮らしを当たり前のものとされ、知っている人は気を遣ってくれるけれどふと気が緩めば「みんな勝手に楽しい会話をして、誰もその内容を教えてくれない」みたいなことが綿々とつづいていたら、不自由さ以上に猛烈な疎外感でその社会に対して憤ったり苛立ったりするのかもしれないなと思いました。身体的な不自由さによる分断とは少し性質の違う、たとえば僕がひとりで言葉の通じない異国に行ったときのような孤立のようなものを感じてしまうのかもしれないなと。しかも、それがたったひとつの「自分の国」だというときの疎外感はいかばかりか。

そんななかで、きこえない・きこえにくい人の「ための」オリンピックなんていう大会が行なわれたら期待しますよね。それなのに、そこが自分たちにとって理想的と感じる空間ではなく、これまで憤りながら自助努力で合わせてきた「聴者」たちの社会がそのまま広がっていて、聴者の基準と聴者の感覚に基づいた聴者による運営が行なわれていたら、今まで静かに積もらせてきた憤りがあふれ出すのもむべなるかなと思います。普段何もしない野郎が「今日はママのために誕生日パーティーを開きます」なんて言い出した日に、何やかんやで準備を手伝わされたり、最後は酔って寝ている野郎のぶんまで食器を洗っていたりしたら、その皿投げつけたくなるでしょうからね。何が「ために」だと。何も変わってないじゃないかと。じゃあ「ために」なんて言うなよと。

そういう意味では、僕らがちょっと手話覚えてきました、みたいな態度もイラッとするのかもしれないなと思いましたよね。自分たちの暮らしや、育んできた文化に思い致すことなく、ファッション感覚でちょっと手話したりするわけですよね。間違った知識と知ったかで微妙におかしなことを定着させていくわけですよね。で、それなのにいざ対面すると「どうしたんですか?」とかいつも通り音声で話し始めて、話が通じないわけですよね。それじゃ、流行のダンスをやってるだけですよね。だったらいっそまったく何も知らないまま、何も知らないんだと自覚して、外国のように接してくれたほうがまだマシって話だったりするのかもしれません。「ゴールデンカムイ読んでアイヌの人々のことをわかった気になる」くらいの、一番危うい知ったかのゾーンで聴者たちが楽しんでいたデフリンピックだったとしたら、そう見えていたのだとしたら、それは申し訳ないなと思います。

「みんなで手話の君が代ができたら一体感ありそう」みたいに思っていたことも、いろいろ見るうちにちょっと危ういんだなと思いました。「このくらいの簡単さならできるかも」と思った君が代の手話は、ごく簡単なバージョンのほうであって、きこえない・きこえにくい人に本当に刺さる君が代の手話はもっと表現力に満ちた複雑なもので、試合前のちょっとした練習程度で真似できるようなものではなさそうに見えましたので。だからといって、手話を使わない聴者でも真似できそうな簡単なバージョンに合わせましょう、なんてことになったら、それはまた手話の文化を軽んじて「舐めてる」感じになりそうですものね。「さざれ石ってよくわかんないですね」「細石だから、要するに小石のことよ」「じゃあ歌詞もわかりやすく『小さい石』にしましょう」「ちぃーさーい いーしが」「おぉーいわーになーって」なんて君が代の歌詞を簡略化されたらイラッとしますからね。

↓選手たちがやってくれていたのはこのバージョンが多いようでした!



↓でも開会式でチラッとしか映らなかった君が代はもっと表現力高そう!


デフリンピックで君が代の手話が全部映らなかったら、そりゃ蔑ろにされてると思いますよね!

音声は画面に映ってなくてもわかるだろと!開会式でいきなり「ズコー(イラッ)」ですよね!



この大会を日本におけるきこえない・きこえにくい人の文化を知り、その文化に触れるスタートラインとするのであれば、なおのこと「ろう者」の文化圏によって大会を作るべきだったなと今さらながらに思います。仮に聴者にとっての不自由が発生したとしても、それはそれでいいじゃないですか。「観衆の大半は聴者なんだろうから結局は音声で話したほうが早い」みたいなことではなく、その文化圏自体に飛び込むような体験をしてもらうほうが、持ち帰るレガシーも多かったのではないかと思います。「一生懸命話しかけたのに売店で注文が伝わらなかった」「メニューを指差したら伝わった」「そういうことか」みたいな出来事でもあれば、逆の立場について思い致す機会にもなったでしょう。

この大会はスタートラインになったのか、あるいは「スタートラインはもう少し先にある」ことがわかった大会になったのか、そのあたりの評価は少し落ち着いたところでいろいろと出てくるだろうと思います。なかにはそれこそ耳が痛いというか、思いがけないとげとげしさをまとった論評もあるかもしれません。そのときに、そのとげとげしさで滅入ってしまったり反発してしまったりするのではなく、そうなるまでには何かあったんだろうなと一回待てるようであればいいなと思います。僕も大会の序盤のほうは「ん?」と思う瞬間もありましたが、一回待ってよかったなと思っています。「ん?」の瞬間に反応していたら、2週間後よりもだいぶ危うい反応になっていたと思いますので。まぁ今も実際のところはよくわかっていませんが「一回待てる」くらいにはなりましたので、今大会を機会に少しでもいい感じになる、スタートを切れていたらいいなと思います!


26日は閉会式、閉会式ではカメラも手話メインで映してくれるでしょう!