2014年02月19日18:00
今夜、史上最高の浅田真央へ!
ソチ五輪も気がつけば大会13日目。僕も観戦による寝不足と出勤による疲労で、体力的にもかなり苦しくなってきました。もはや仕事を休むこと不可避という状況で、布団の上でゴロゴロしながらスマホをいじる程度のことしかできそうにありません。
しかし、どれだけ体調が悪くても見守らなければいけない試合がある。
今夜行なわれるフィギュアスケート・女子シングル、ショートプログラム。世界の多くの名選手、もちろん日本からも鈴木明子・村上佳菜子という2選手も出場するわけですが、やはり今夜は真央ちゃんでしょう。真央ちゃんの集大成となる2度目の五輪、正座して見守る義務がある。スポーツファンの…いや国民の義務と言ってもいいレベルで。それが今夜です。
真央ちゃんは2005-2006シーズンの鮮烈なるシニアデビュー以来、日本のフィギュアスケート界を牽引してきました。これまでに多くの名選手が生まれたフィギュアスケートですが、真央ちゃんほど衆目を集め、この競技を広く世間に知らしめた選手はいないでしょう。主要な大会がテレビのゴールデンタイムで中継され、出場選手がスターとなるようになったのも、真央ちゃんあればこそ。
真央ちゃんはいつも輝いています。
実力・結果はもちろん、人として浅田真央は光に満ちている。15歳でスターダムにのし上がり、世界を制した少女。早すぎる栄光は、ときに人の成長を妨げ、人生に影を落とします。あるいは早すぎる栄光が、早すぎる終焉を導くこともあります。世間が愛でれば愛でるほど、それを煩わしいと思う気持ちも生まれることでしょう。そして自分の世界に閉じこもってみたり、突き放してみたり。
そんな中、僕の記憶の中の、あなたの記憶の中の真央ちゃんはどうか。真央ちゃんはいつもそこにいる。すぐ近くにいるお姉さんであり、昔から変わらないいい子であり、「真央ちゃん」が素直にそのまま大人になったような女性がいる。この安心感。真央ちゃんは太陽のようにフィギュアスケートを、日本のスポーツ界を照らしてきました。この10年近くの時間、「主人公」として常にそこにありつづけ、栄光も挫折も受け止めて、輝きつづけてきました。逃げず、折れず、歪まず。
そんな真央ちゃんが集大成に臨むのが今夜。
その結果がどうなるか、この10年近くの時間に感謝しながら見守らなくてはいけない。ほかの選手を応援するときより、少しだけ襟を正して。僕はそんな気がするのです。
勝ち負けで言えば、決して展望は明るくありません。
地元ロシアの大声援を受けたリプニツカヤは金メダルの本命候補。あの歓声の中でもミスせず、団体戦の金メダルを引き寄せた心臓は本物でした。驚異的な柔軟性から繰り出す、真似するもののないキャンドルスピンなどの独創的な技。15歳ゆえの小柄な肉体から繰り出す確実性の高いジャンプ。この演技を大観衆が後押しすれば、点数をつけざるを得ないと思います。
そして、前回大会の女王キム・ヨナ。日本では憎しみを抱く人すらいるほど、厄介で手強い相手。いろいろと批判をする向きもありますが、現行の採点基準で得点を取れる技術と、容易にミスをしない精神力は称賛に値します。自分から負けてはくれない相手。今季も主要な国際大会には出場していないながらも、ローカル大会では高得点をたたき出しており、表彰台の一角を狙ってくることは間違いありません。
ラクではない。むしろ、苦しい。
ただ、勝ち負けはジャッジが決めることであり、他人との比較であり、自分ではどうすることもできない話。どうすることもできないものを考えても仕方ありません。
僕は金メダルは望みません。もちろんメダルを獲って欲しいけれど、メダルをあげたいけれど、金メダルを望めば、この大会は勝ち負けを競う「勝負」となってしまう。自分より相手が低ければそれでOK…そういう戦いになってしまう。「勝ち負け」は浅田真央の集大成にはそぐわない考え方です。採点の正当性を疑ってみたり、陰謀論に身を委ねたり、ライバルの転倒を祈ってみたり、邪念を生むことにしかならない不健全な考え方です。
そうした邪念を心に置いて見守るのは真央ちゃんにも悪い。真央ちゃん自身は決してそういう邪念に流されない人だと、これまでの時間は物語っています。浅田真央は「コケろ」「糞ジャッジ」「ロシア汚ったねぇ」などとは思わない人。そう信じればこそ、僕らも後ろから見守る者として、自分の中の根深い邪念を捨てねばならないと思うのです。
五輪の舞台、何を目指すのか。
五輪の舞台、そこだけで目指せるものは何か。
僕は五輪の舞台における、もっとも尊い目標は「自己ベスト」だと思っています。過去の自分を超え、塗り替えていくこと。それこそが五輪でしかできない、挑めない目標だと思うのです。
五輪という舞台は、4年に一度、最高の自分に到達するチャンスです。それは4年に一度・この日・この時という制限があるからこそ生まれるチャンス。たった一日だからこそ、膨大な努力を積み上げられる。たった一日だからこそ、すべてを注ぎ込める。次のチャンスがないからこそ限界まで挑戦できる。そう思います。
浅田真央の集大成となる五輪は、誰かに勝つよりも、自分に勝つ五輪であってほしい。史上最高の浅田真央はコレだと、本人も、ファンも、誰もが納得の統一見解となるような大会であってほしい。
もし、あのトリノ五輪に出られていたら、真央ちゃんはきっと金メダルだったろう。そんなことを考える人も多いかもしれません。今夜、再びそれを考える人もいるかもしれません。あのときこそが「史上最高」であったと歯噛みしながら。
あのシーズン、GPファイナルを制したことで、もしトリノ五輪に出ていたら金メダルだったろう…そう思いたくなるのは無理からぬこと。しかし、あのときどうなったかなんて誰にもわかりません。どれだけ強い選手でも、たった1回の本番で勝てるかなんてこと、計算しようがないのです。繰言をしても意味がないでしょう。
それに、15歳が到達点なんてこと、あり得ない。
フィギュアスケートはスポーツであり舞踏です。スポーツとして見た場合、ジャンプという技術的な要素は確かに体型によって有利不利は生まれます。しかし、舞踏という側面において、15歳の少女より23歳の女性が劣るとは言えません。いやむしろ、少女という役柄に縛られることなく、さまざまな情感や情景を表現できるように進化しているはず。
15歳の浅田真央より、23歳の浅田真央のほうがどう考えても上のはずなのです。「他人との比較の順位」を別とすれば、人間としても、選手としても、技術にしても、精神にしても、8年間のたゆまぬ努力が前進させているはずなのです。ジャンプが跳びにくくなっただけで、トリプルアクセルが失われたわけでもありませんし。
僕は真央ちゃんがトリプルアクセルに行く瞬間が好きです。
年々好きになっています。
あの瞬間、前を見つめながら、一瞬ダラリと腕を下げる。そしてスピードに乗って進む身体を、エッジを効かせて上に跳ね上げる。溜めてからの………爆発。女子では挑む者すらなかなか出てこない難技にあえて挑戦する瞬間。勇気にアクセルをかけて跳ぶ瞬間。年齢によりジャンプがやり辛くなってくる中で、瞬間の表情に「覚悟」が浮かび上がるようになりました。何も考えずピョーンと跳ぶのではなく、跳ぶのだという強い覚悟を宿らせるようになりました。
自分の目指すパーフェクトには、この勇気が必要なのだ…そういう覚悟が。
今回は、幸いなことに素晴らしいシチュエーションが出来上がっています。
バンクーバーで自分の上にいた相手がいる。あの頃より自分が前進できたかを知る、絶好の目安です。流れるラフマニノフの調べは、19歳の浅田真央をクロスオーバーさせながら、4年分の進化を彩るに違いありません。
そして、15歳の天才少女がいる。あの頃より自分が前進できたかを知る、絶好の目安です。より強い覚悟で跳ぶトリプルアクセルは、15歳の浅田真央をクロスオーバーさせながら、8年分の進化を刻み付けるに違いありません。
過去を感じながら、未来に向かって跳ぶ。
跳び、越えて、行く。
そういう大会になってほしいと思います。
記憶をたどったときに、真央ちゃんが笑っている姿があまり思い浮かびません。いや、何か、いつも笑ってはいるんですけど、それが心の底からなのかどうかわからないというか。世界選手権を制したときも笑顔でしたが、踊り終えたときはホッとしたような表情に見えましたし、不振を乗り越え全日本で勝利したときも、静かに感極まっているようでした。
はちきれそうな笑顔で、両手を震わせながら、氷の上で跳びはね、倒れこむ。真央ちゃんが「やった!やった!やった!」「ああああああああ!!」という叫びを上げるような場面を見た記憶がありません。選手なら誰しもそういう自分への興奮があると思うのですが。抑えきれないくらいの達成感が。
もしそれを見られたら、たとえどういう状況であったとしても…順位がどうであっても、技術的なミスが多少あったりなかったりしても、「史上最高」と心から思えるような気がするのです。誰もがその集大成に納得できると思うのです。そして、「今まで本当にありがとう」と後ろ髪引くことなく言えるのではないかなと。
史上最高、信じて待とうと思います。
主人公は最後の最後で笑うってのが、世界のお約束ですから…。
ソチ五輪も気がつけば大会13日目。僕も観戦による寝不足と出勤による疲労で、体力的にもかなり苦しくなってきました。もはや仕事を休むこと不可避という状況で、布団の上でゴロゴロしながらスマホをいじる程度のことしかできそうにありません。
しかし、どれだけ体調が悪くても見守らなければいけない試合がある。
今夜行なわれるフィギュアスケート・女子シングル、ショートプログラム。世界の多くの名選手、もちろん日本からも鈴木明子・村上佳菜子という2選手も出場するわけですが、やはり今夜は真央ちゃんでしょう。真央ちゃんの集大成となる2度目の五輪、正座して見守る義務がある。スポーツファンの…いや国民の義務と言ってもいいレベルで。それが今夜です。
真央ちゃんは2005-2006シーズンの鮮烈なるシニアデビュー以来、日本のフィギュアスケート界を牽引してきました。これまでに多くの名選手が生まれたフィギュアスケートですが、真央ちゃんほど衆目を集め、この競技を広く世間に知らしめた選手はいないでしょう。主要な大会がテレビのゴールデンタイムで中継され、出場選手がスターとなるようになったのも、真央ちゃんあればこそ。
真央ちゃんはいつも輝いています。
実力・結果はもちろん、人として浅田真央は光に満ちている。15歳でスターダムにのし上がり、世界を制した少女。早すぎる栄光は、ときに人の成長を妨げ、人生に影を落とします。あるいは早すぎる栄光が、早すぎる終焉を導くこともあります。世間が愛でれば愛でるほど、それを煩わしいと思う気持ちも生まれることでしょう。そして自分の世界に閉じこもってみたり、突き放してみたり。
そんな中、僕の記憶の中の、あなたの記憶の中の真央ちゃんはどうか。真央ちゃんはいつもそこにいる。すぐ近くにいるお姉さんであり、昔から変わらないいい子であり、「真央ちゃん」が素直にそのまま大人になったような女性がいる。この安心感。真央ちゃんは太陽のようにフィギュアスケートを、日本のスポーツ界を照らしてきました。この10年近くの時間、「主人公」として常にそこにありつづけ、栄光も挫折も受け止めて、輝きつづけてきました。逃げず、折れず、歪まず。
そんな真央ちゃんが集大成に臨むのが今夜。
その結果がどうなるか、この10年近くの時間に感謝しながら見守らなくてはいけない。ほかの選手を応援するときより、少しだけ襟を正して。僕はそんな気がするのです。
勝ち負けで言えば、決して展望は明るくありません。
地元ロシアの大声援を受けたリプニツカヤは金メダルの本命候補。あの歓声の中でもミスせず、団体戦の金メダルを引き寄せた心臓は本物でした。驚異的な柔軟性から繰り出す、真似するもののないキャンドルスピンなどの独創的な技。15歳ゆえの小柄な肉体から繰り出す確実性の高いジャンプ。この演技を大観衆が後押しすれば、点数をつけざるを得ないと思います。
そして、前回大会の女王キム・ヨナ。日本では憎しみを抱く人すらいるほど、厄介で手強い相手。いろいろと批判をする向きもありますが、現行の採点基準で得点を取れる技術と、容易にミスをしない精神力は称賛に値します。自分から負けてはくれない相手。今季も主要な国際大会には出場していないながらも、ローカル大会では高得点をたたき出しており、表彰台の一角を狙ってくることは間違いありません。
ラクではない。むしろ、苦しい。
ただ、勝ち負けはジャッジが決めることであり、他人との比較であり、自分ではどうすることもできない話。どうすることもできないものを考えても仕方ありません。
僕は金メダルは望みません。もちろんメダルを獲って欲しいけれど、メダルをあげたいけれど、金メダルを望めば、この大会は勝ち負けを競う「勝負」となってしまう。自分より相手が低ければそれでOK…そういう戦いになってしまう。「勝ち負け」は浅田真央の集大成にはそぐわない考え方です。採点の正当性を疑ってみたり、陰謀論に身を委ねたり、ライバルの転倒を祈ってみたり、邪念を生むことにしかならない不健全な考え方です。
そうした邪念を心に置いて見守るのは真央ちゃんにも悪い。真央ちゃん自身は決してそういう邪念に流されない人だと、これまでの時間は物語っています。浅田真央は「コケろ」「糞ジャッジ」「ロシア汚ったねぇ」などとは思わない人。そう信じればこそ、僕らも後ろから見守る者として、自分の中の根深い邪念を捨てねばならないと思うのです。
五輪の舞台、何を目指すのか。
五輪の舞台、そこだけで目指せるものは何か。
僕は五輪の舞台における、もっとも尊い目標は「自己ベスト」だと思っています。過去の自分を超え、塗り替えていくこと。それこそが五輪でしかできない、挑めない目標だと思うのです。
五輪という舞台は、4年に一度、最高の自分に到達するチャンスです。それは4年に一度・この日・この時という制限があるからこそ生まれるチャンス。たった一日だからこそ、膨大な努力を積み上げられる。たった一日だからこそ、すべてを注ぎ込める。次のチャンスがないからこそ限界まで挑戦できる。そう思います。
浅田真央の集大成となる五輪は、誰かに勝つよりも、自分に勝つ五輪であってほしい。史上最高の浅田真央はコレだと、本人も、ファンも、誰もが納得の統一見解となるような大会であってほしい。
もし、あのトリノ五輪に出られていたら、真央ちゃんはきっと金メダルだったろう。そんなことを考える人も多いかもしれません。今夜、再びそれを考える人もいるかもしれません。あのときこそが「史上最高」であったと歯噛みしながら。
あのシーズン、GPファイナルを制したことで、もしトリノ五輪に出ていたら金メダルだったろう…そう思いたくなるのは無理からぬこと。しかし、あのときどうなったかなんて誰にもわかりません。どれだけ強い選手でも、たった1回の本番で勝てるかなんてこと、計算しようがないのです。繰言をしても意味がないでしょう。
それに、15歳が到達点なんてこと、あり得ない。
フィギュアスケートはスポーツであり舞踏です。スポーツとして見た場合、ジャンプという技術的な要素は確かに体型によって有利不利は生まれます。しかし、舞踏という側面において、15歳の少女より23歳の女性が劣るとは言えません。いやむしろ、少女という役柄に縛られることなく、さまざまな情感や情景を表現できるように進化しているはず。
15歳の浅田真央より、23歳の浅田真央のほうがどう考えても上のはずなのです。「他人との比較の順位」を別とすれば、人間としても、選手としても、技術にしても、精神にしても、8年間のたゆまぬ努力が前進させているはずなのです。ジャンプが跳びにくくなっただけで、トリプルアクセルが失われたわけでもありませんし。
僕は真央ちゃんがトリプルアクセルに行く瞬間が好きです。
年々好きになっています。
あの瞬間、前を見つめながら、一瞬ダラリと腕を下げる。そしてスピードに乗って進む身体を、エッジを効かせて上に跳ね上げる。溜めてからの………爆発。女子では挑む者すらなかなか出てこない難技にあえて挑戦する瞬間。勇気にアクセルをかけて跳ぶ瞬間。年齢によりジャンプがやり辛くなってくる中で、瞬間の表情に「覚悟」が浮かび上がるようになりました。何も考えずピョーンと跳ぶのではなく、跳ぶのだという強い覚悟を宿らせるようになりました。
自分の目指すパーフェクトには、この勇気が必要なのだ…そういう覚悟が。
今回は、幸いなことに素晴らしいシチュエーションが出来上がっています。
バンクーバーで自分の上にいた相手がいる。あの頃より自分が前進できたかを知る、絶好の目安です。流れるラフマニノフの調べは、19歳の浅田真央をクロスオーバーさせながら、4年分の進化を彩るに違いありません。
そして、15歳の天才少女がいる。あの頃より自分が前進できたかを知る、絶好の目安です。より強い覚悟で跳ぶトリプルアクセルは、15歳の浅田真央をクロスオーバーさせながら、8年分の進化を刻み付けるに違いありません。
過去を感じながら、未来に向かって跳ぶ。
跳び、越えて、行く。
そういう大会になってほしいと思います。
記憶をたどったときに、真央ちゃんが笑っている姿があまり思い浮かびません。いや、何か、いつも笑ってはいるんですけど、それが心の底からなのかどうかわからないというか。世界選手権を制したときも笑顔でしたが、踊り終えたときはホッとしたような表情に見えましたし、不振を乗り越え全日本で勝利したときも、静かに感極まっているようでした。
はちきれそうな笑顔で、両手を震わせながら、氷の上で跳びはね、倒れこむ。真央ちゃんが「やった!やった!やった!」「ああああああああ!!」という叫びを上げるような場面を見た記憶がありません。選手なら誰しもそういう自分への興奮があると思うのですが。抑えきれないくらいの達成感が。
もしそれを見られたら、たとえどういう状況であったとしても…順位がどうであっても、技術的なミスが多少あったりなかったりしても、「史上最高」と心から思えるような気がするのです。誰もがその集大成に納得できると思うのです。そして、「今まで本当にありがとう」と後ろ髪引くことなく言えるのではないかなと。
史上最高、信じて待とうと思います。
主人公は最後の最後で笑うってのが、世界のお約束ですから…。
自分を信じて、自分のために跳べ!真央!!