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2017年03月27日07:00
ひどい相撲、だが今まで見た相撲のなかで一番感動した!
持論は曲げられないので説教からです。手短にやります。大相撲千秋楽、小横綱・稀勢の里の相撲はひどいものでした。優勝を争う照ノ富士を迎えた本割、立ち合いで一度右変化を見せたうえに、やり直しの二度目の立ち合いで今度は左変化を見せたのです。
横綱が相撲の醍醐味であるところのデブとデブがドーンと当たるデブデブドーンから逃げるとは何たることか。「組むための変化」などという言い訳は僕には通じません。ドーンがなければ相撲である意味がない。ドーンをしないならレスリングをやってください。好きなだけ変化し、存分にバックをとればいい。
前日の十四日目、照ノ富士が琴奨菊を変化でくだしたドッチラケの一番をめっためたに斬り捨てなくてよかったなと、僕自身も冷や汗をかくほど、千秋楽の稀勢の里はひどい相撲でした。「変化」をした人間が得をするのは、みんなが真摯に「デブデブドーン」に取り組んでいるからこそ。相撲の魅力を守っている人がいるから、得する余地が残るのです。他人の誠実さのうえに乗っかって利益を得るのはつつしまなくてはいけない。横綱ならばなおのことです。
もちろん、怪我だから仕方なかったという側面はあるでしょう。しかし、そもそも怪我をしたのも相撲が荒いからです。前に出るという相撲の基本を疎かにし、窮余の策であるところの左差しからのすくい投げ・突き落としを多用したもんで怪我をしたのです。千代の富士が若い頃にチカラで相手をブン投げて身体を傷めたときのよう。あのすくい投げ・突き落としは「ここ一番」の技と自戒すべき。まずしっかりと前に出て十五日を寄り切っていくことが肝要です。
千秋楽のような相撲はもう見せないでほしい。あれは横綱の相撲ではありません。横綱はすべてのドーンを受け止めて、なお相手を上回るからこその横綱なのです。品格、力量ともにまだまだ足りないことを、今場所の小横綱は露見させました。来場所以降への反省点として胸に留めておいてほしい。「勝てば何でもいい」などとは僕は思いません。
ただ、この日の相撲は僕の一生の宝です。
こんな素晴らしい日を迎えられるなんて夢のようです。稀勢の里が、この奇跡のような物語の主人公になるなんて。僕はもう心の浅いところでは全部を諦めていたのです。稀勢の里は優勝もしないし、横綱にもならないし、なるべく長く大関でいてくれたらそれでいいと自分を慰めていたのです。
この男こそはと思ってから十年、大関となってから五年、それはそれは長かった。深いところで最後に小さく残った種火を絶やさないようにするだけで精一杯の年月でした。それが初場所で優勝をし、横綱となり、今度は奇跡を起こして連覇してしまうなんて。稀勢の里とともに歩んだ「失意の十年」が今一気に裏返っていくような気持ちです。
千秋楽の本割、正直、勝つとは思っていませんでした。「出場した」こと自体が勝利であり、もうそれで十分だと思っていました。「横綱は場所に穴をあけてはいけない」「みんな横綱を見にくるのだ」「土俵入りだけでも見せるべき」「優勝争いに不戦敗で水を差すなど言語道断」すべての理屈が稀勢の里を讃えるのに、心は嘆くというねじれ現象で、複雑な心境でした。「怪我なくキレイに負けてくれ…」と願うような見守りかたです。
一度目の立ち合い、立ち遅れ気味の稀勢の里は右に変化しました。白鵬なら「これは変化じゃない」と言い張るような、まわりながら右上手を狙う動きですが、稀勢の里の美学にはない動きです。その相撲に憤りつつ、それほど左肩の状態は悪いのかと改めて頭を抱え、その立ち合いが行司によって止められたことで策もバレてしまうという、まさに八方塞がりです。
それが二度目の立ち合いで、今度は左に変化するというまさかの動き。左手をダラリと下げたまま右ではたいた稀勢の里は、踏みとどまった照ノ富士の反撃を右で抱えて何とか凌ぐと、右で巻きこむようにして左から突き落とします。美学も何もない、ただただ勝つためだけの相撲でした。
昨年の大阪でも琴奨菊に変化を見せたことがありますが、あのときは一度頭で当たってからの変化。それが今回は二度変化し、二度目は当たることさえも避けたという形です。これほど勝ちたがる稀勢の里を見たのは初めてです。これが横綱という地位についたことでの違いなのか。心が弱いなどと、もう言うことはできない。凄まじいまでの執念でした。
↓左はきかないけれど、足はよく動く!鋭い回転で勝利をつかんだ!
迎えた優勝決定戦。「今日勝てば優勝」の日にことごとく負けてきた稀勢の里が「勝てば優勝」の一番に臨む。稀勢の里の顔はいたって静か、照ノ富士はいつものように闘志をみなぎらせる対照的な両者。一度目は呼吸合わずやり直しになり、二度目の立ち合い。稀勢の里はもろ手で突いて照ノ富士の動きを押しとどめると、今度は右で抱えての首投げを狙います。ただ、それでは仕留められず、照ノ富士にもろ差しを許してしまう。あぁ、終わった。一発を狙ったが通じなかった。そう思った。
しかし、稀勢の里は使える右手でなおも小手投げを打つ。「もうこれしかできない」という最後の仕掛け。互いに土俵外に飛んでいくさなか、稀勢の里の左足が土俵のへりを走って、一歩跳んでこらえた。この一歩で照ノ富士の体重は稀勢の里を逸れ、体が先に落ちていった。鍛えた身体が助けてくれた。腕が一本使えないぶんを、残りの3本が助けてくれた。山下泰裕や古賀稔彦が見せたような、本物だけが成せる奇跡がそこにありました。
↓何という勝利!土俵の奇跡!こんな稀勢の里が見られるなんて!
この二番は右腕一本の勝利ではない!
鍛え上げた足が支える、右腕+両足=3本での勝利!
表彰式、こらえる涙をおさえられない稀勢の里。初優勝よりもさらに大きな涙は、横綱として場所を守る苦しさ、怪我の苦しさ、多くのものから解放されていく安堵のようでした。横綱に昇進した場所は、えてして成績が振るわないもの。それは当たり前のことで、お祝いの席が怒涛のように押し寄せ、行事がまたいくつもいくつもある。慣れない土俵入り、プレッシャー、すべてが未体験のものです。
そのなかで昇進即優勝、しかもこのような奇跡を演じられたのは、何よりも稀勢の里の相撲道への真摯な向き合い方を示すものです。腕は怪我をしても足は元気だった。稽古が最後の一歩を支えた。その姿勢、誇っていいと思います。本人が語った「見えないチカラ」があるとすれば、いつ何時も変わらず、どんなに報われない日も腐らず、貫いてきた相撲道こそがそのチカラでしょう。
一番辛い日に頑張れる男だったからこそ、天にものぼろうという日にも「最後の一歩」を支える厳しい稽古に身を置けたのです。先代師匠が教え、自分自身に課した厳しさが奇跡をくれた。自分に甘い男ならすでに休みを決め込んで、挑戦することすらなかっただろうこの奇跡を。
「好き」と「勝つ」は一致しないもので、だからこそのめり込んでしまうのがファン心理。そのなかでも、とりわけ「好き」と「勝つ」が一致しなかったのが、稀勢の里という力士でした。それが今、吸いつくようにひとつになった。一番好きな力士が、奇跡の勝利を見せてくれた。先場所の勝利や横綱昇進もうれしかったけれど、今場所の優勝によってようやく長い失意が報われたような気がします。
「一度でいいから稀勢の里のこんな姿を見たい」
そう思い描いていたものを、僕は見ました。もう稀勢の里も三十代で、今場所は怪我もして、かつて見た夢のすべてが叶わないだろうことは否めません。けれど、本当に大事な夢はちゃんと見せてくれた。何度でも振り返り、永遠に愛することができる相撲を、心から稀勢の里を応援して見守ることができたのです。望外の幸せです。
これからしばらく怪我によって期待を裏切る場所がつづくかもしれませんが、もう心は晴れやかです。どんな成績も、どんな退屈な勝利も、情けない敗北もまったく苦にならない。僕はもうすでに、今までに自分が見たすべての相撲で最高のものを見たのですから。大好きな稀勢の里の勝利で終わる、素晴らしい奇跡を。
↓今日のことをこの先の人生で、きっと何度も振り返ると思う!
満足だ!
この十年に満足だ!
ありがとう稀勢の里!「好き」と「勝つ」をひとつにしてくれて!
持論は曲げられないので説教からです。手短にやります。大相撲千秋楽、小横綱・稀勢の里の相撲はひどいものでした。優勝を争う照ノ富士を迎えた本割、立ち合いで一度右変化を見せたうえに、やり直しの二度目の立ち合いで今度は左変化を見せたのです。
横綱が相撲の醍醐味であるところのデブとデブがドーンと当たるデブデブドーンから逃げるとは何たることか。「組むための変化」などという言い訳は僕には通じません。ドーンがなければ相撲である意味がない。ドーンをしないならレスリングをやってください。好きなだけ変化し、存分にバックをとればいい。
前日の十四日目、照ノ富士が琴奨菊を変化でくだしたドッチラケの一番をめっためたに斬り捨てなくてよかったなと、僕自身も冷や汗をかくほど、千秋楽の稀勢の里はひどい相撲でした。「変化」をした人間が得をするのは、みんなが真摯に「デブデブドーン」に取り組んでいるからこそ。相撲の魅力を守っている人がいるから、得する余地が残るのです。他人の誠実さのうえに乗っかって利益を得るのはつつしまなくてはいけない。横綱ならばなおのことです。
もちろん、怪我だから仕方なかったという側面はあるでしょう。しかし、そもそも怪我をしたのも相撲が荒いからです。前に出るという相撲の基本を疎かにし、窮余の策であるところの左差しからのすくい投げ・突き落としを多用したもんで怪我をしたのです。千代の富士が若い頃にチカラで相手をブン投げて身体を傷めたときのよう。あのすくい投げ・突き落としは「ここ一番」の技と自戒すべき。まずしっかりと前に出て十五日を寄り切っていくことが肝要です。
千秋楽のような相撲はもう見せないでほしい。あれは横綱の相撲ではありません。横綱はすべてのドーンを受け止めて、なお相手を上回るからこその横綱なのです。品格、力量ともにまだまだ足りないことを、今場所の小横綱は露見させました。来場所以降への反省点として胸に留めておいてほしい。「勝てば何でもいい」などとは僕は思いません。
見事に優勝した 横綱 #稀勢の里 関。テーピングをはがした左腕を見てください。負傷していた腕の内側が大きく黒ずんでいます。 こんな状態で土俵に上がっていたんですね。(26日、大阪府立体育会館で、里見研撮影)記事は→
— 読売新聞写真部 (@tshashin) 2017年3月26日
https://t.co/58izhBDLO9 pic.twitter.com/p0MM1jOZLA
ただ、この日の相撲は僕の一生の宝です。
こんな素晴らしい日を迎えられるなんて夢のようです。稀勢の里が、この奇跡のような物語の主人公になるなんて。僕はもう心の浅いところでは全部を諦めていたのです。稀勢の里は優勝もしないし、横綱にもならないし、なるべく長く大関でいてくれたらそれでいいと自分を慰めていたのです。
この男こそはと思ってから十年、大関となってから五年、それはそれは長かった。深いところで最後に小さく残った種火を絶やさないようにするだけで精一杯の年月でした。それが初場所で優勝をし、横綱となり、今度は奇跡を起こして連覇してしまうなんて。稀勢の里とともに歩んだ「失意の十年」が今一気に裏返っていくような気持ちです。
千秋楽の本割、正直、勝つとは思っていませんでした。「出場した」こと自体が勝利であり、もうそれで十分だと思っていました。「横綱は場所に穴をあけてはいけない」「みんな横綱を見にくるのだ」「土俵入りだけでも見せるべき」「優勝争いに不戦敗で水を差すなど言語道断」すべての理屈が稀勢の里を讃えるのに、心は嘆くというねじれ現象で、複雑な心境でした。「怪我なくキレイに負けてくれ…」と願うような見守りかたです。
一度目の立ち合い、立ち遅れ気味の稀勢の里は右に変化しました。白鵬なら「これは変化じゃない」と言い張るような、まわりながら右上手を狙う動きですが、稀勢の里の美学にはない動きです。その相撲に憤りつつ、それほど左肩の状態は悪いのかと改めて頭を抱え、その立ち合いが行司によって止められたことで策もバレてしまうという、まさに八方塞がりです。
それが二度目の立ち合いで、今度は左に変化するというまさかの動き。左手をダラリと下げたまま右ではたいた稀勢の里は、踏みとどまった照ノ富士の反撃を右で抱えて何とか凌ぐと、右で巻きこむようにして左から突き落とします。美学も何もない、ただただ勝つためだけの相撲でした。
昨年の大阪でも琴奨菊に変化を見せたことがありますが、あのときは一度頭で当たってからの変化。それが今回は二度変化し、二度目は当たることさえも避けたという形です。これほど勝ちたがる稀勢の里を見たのは初めてです。これが横綱という地位についたことでの違いなのか。心が弱いなどと、もう言うことはできない。凄まじいまでの執念でした。
↓左はきかないけれど、足はよく動く!鋭い回転で勝利をつかんだ!
迎えた優勝決定戦。「今日勝てば優勝」の日にことごとく負けてきた稀勢の里が「勝てば優勝」の一番に臨む。稀勢の里の顔はいたって静か、照ノ富士はいつものように闘志をみなぎらせる対照的な両者。一度目は呼吸合わずやり直しになり、二度目の立ち合い。稀勢の里はもろ手で突いて照ノ富士の動きを押しとどめると、今度は右で抱えての首投げを狙います。ただ、それでは仕留められず、照ノ富士にもろ差しを許してしまう。あぁ、終わった。一発を狙ったが通じなかった。そう思った。
しかし、稀勢の里は使える右手でなおも小手投げを打つ。「もうこれしかできない」という最後の仕掛け。互いに土俵外に飛んでいくさなか、稀勢の里の左足が土俵のへりを走って、一歩跳んでこらえた。この一歩で照ノ富士の体重は稀勢の里を逸れ、体が先に落ちていった。鍛えた身体が助けてくれた。腕が一本使えないぶんを、残りの3本が助けてくれた。山下泰裕や古賀稔彦が見せたような、本物だけが成せる奇跡がそこにありました。
↓何という勝利!土俵の奇跡!こんな稀勢の里が見られるなんて!
この二番は右腕一本の勝利ではない!
鍛え上げた足が支える、右腕+両足=3本での勝利!
>NHK大相撲ジャーナル 2017年 4月号 / NHK大相撲ジャーナル編集部 【雑誌】 価格:980円 |
表彰式、こらえる涙をおさえられない稀勢の里。初優勝よりもさらに大きな涙は、横綱として場所を守る苦しさ、怪我の苦しさ、多くのものから解放されていく安堵のようでした。横綱に昇進した場所は、えてして成績が振るわないもの。それは当たり前のことで、お祝いの席が怒涛のように押し寄せ、行事がまたいくつもいくつもある。慣れない土俵入り、プレッシャー、すべてが未体験のものです。
そのなかで昇進即優勝、しかもこのような奇跡を演じられたのは、何よりも稀勢の里の相撲道への真摯な向き合い方を示すものです。腕は怪我をしても足は元気だった。稽古が最後の一歩を支えた。その姿勢、誇っていいと思います。本人が語った「見えないチカラ」があるとすれば、いつ何時も変わらず、どんなに報われない日も腐らず、貫いてきた相撲道こそがそのチカラでしょう。
一番辛い日に頑張れる男だったからこそ、天にものぼろうという日にも「最後の一歩」を支える厳しい稽古に身を置けたのです。先代師匠が教え、自分自身に課した厳しさが奇跡をくれた。自分に甘い男ならすでに休みを決め込んで、挑戦することすらなかっただろうこの奇跡を。
https://t.co/46AIGX56Or
— 毎日新聞写真部 (@mainichiphoto) 2017年3月26日
負傷しながらも優勝した稀勢の里。
表彰式では目に涙が溢れていました。
写真特集で。#大相撲春場所 https://t.co/2KEAKLNB07 pic.twitter.com/oipJTFek7d
「好き」と「勝つ」は一致しないもので、だからこそのめり込んでしまうのがファン心理。そのなかでも、とりわけ「好き」と「勝つ」が一致しなかったのが、稀勢の里という力士でした。それが今、吸いつくようにひとつになった。一番好きな力士が、奇跡の勝利を見せてくれた。先場所の勝利や横綱昇進もうれしかったけれど、今場所の優勝によってようやく長い失意が報われたような気がします。
「一度でいいから稀勢の里のこんな姿を見たい」
そう思い描いていたものを、僕は見ました。もう稀勢の里も三十代で、今場所は怪我もして、かつて見た夢のすべてが叶わないだろうことは否めません。けれど、本当に大事な夢はちゃんと見せてくれた。何度でも振り返り、永遠に愛することができる相撲を、心から稀勢の里を応援して見守ることができたのです。望外の幸せです。
これからしばらく怪我によって期待を裏切る場所がつづくかもしれませんが、もう心は晴れやかです。どんな成績も、どんな退屈な勝利も、情けない敗北もまったく苦にならない。僕はもうすでに、今までに自分が見たすべての相撲で最高のものを見たのですから。大好きな稀勢の里の勝利で終わる、素晴らしい奇跡を。
↓今日のことをこの先の人生で、きっと何度も振り返ると思う!
https://t.co/46AIGX56Or
— 毎日新聞写真部 (@mainichiphoto) 2017年3月26日
西横綱の稀勢の里が優勝しました。
13日目に左肩付近を痛めながらも、強行出場してつかんだ優勝。
写真特集で。#大相撲春場所 https://t.co/2KEAKLNB07 pic.twitter.com/X80BACThYx
満足だ!
この十年に満足だ!
>Number PLUS 疾風! 大相撲 新世代の力士たち (スポーツグラフィックNumberPLUS)[本/雑誌] / 文藝春秋 価格:1,200円 |
ありがとう稀勢の里!「好き」と「勝つ」をひとつにしてくれて!
稀勢関万歳!!!