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2020年に向けて気をつけていきましょう!

新たな熱戦の舞台、平昌パラリンピックが開幕しました。9日の開会式に始まり10日間に渡る祭典は、次の2020年を控える東京のひとりとして、楽しみでもあり、貴重な学びの機会でもあります。よき前例を吸収し、自分たちがホストとなるその日に備えていきたいもの。

しかし、この開会式を見守りながら、僕は「まだまだだなぁ」と強く反省していました。恥ずかしいような気持ちにもなりました。もっと早く気づくことができたし、もっと早く気づかなければいけなかった問題点を、僕は約1ヶ月以上にも渡り、まったく意識すらしないままこの日を迎えていたからです。

開会式の最大の見せ場である聖火点灯。率直に言って、平昌パラリンピックのそれは近年まれに見るヒドさだったと思います。何故ヒドいのかという話はあとでやるとして、「ヒドくなるであろう」ということを僕は1ヶ月も気づかないでいました。当然気づいていなければいけなかったのに、です。

平昌五輪の開会式を見た人ならばご記憶でしょうが、今大会の聖火台はスタジアムに設けられた長い長い坂道の上にあります。五輪の開会式では、その坂道に設置された階段をのぼり、てっぺんで待つキム・ヨナさんに聖火が託されました。僕はあの階段を「長くて急だなぁ」と思いながらのんきに見守っていたのです。

あのとき僕は「長くて急だなぁ」ではなく、「歩行に不自由がある人のことを何も考えていない最低のデザインだ」と思っていなければいけなかったのです。そして、あの坂道を足の不自由さでのぼれない人はどうするのか、目の不自由さでのぼれない人はどうするのかという解決策に想いをめぐらし、「どこにエレベーターがあるんだ?」と秘密の入り口を探していなければいけなかった。

同じスタジアムでパラリンピックをやることはわかっていたのです。あれだけ長い坂道を見て、「キム・ヨナ落ちたら下まで転がるな」と思っていたのに、1か月後にそこをのぼるパラリンピアンのことを何ひとつ想像していませんでした。胃がキューッと縮まるような恥ずかしさでいっぱいです。

↓「この坂道のぼるの大変そうだなぁ」は自分基準でしか物事が見えていない感想でした!

なるべく誰もが、なるべく自分のチカラで、なるべく何でもできるような世の中にしたい!

そういう気持ちを僕は欠いていた!


本来なら1ヶ月前に五輪の開会式を見ながら気づかなければいけなかったことを、僕はパラリンピックの開会式で聖火が入場してきてからようやく気づきました。「はて、どうやってあの坂をのぼるんだ?」と。そして、その答えは到底容認できないようなものでした。結果的にのぼることはのぼったので、表面上は何の滞りもありませんでしたが、平昌のプランはパラリンピックの精神とは遠く遠くにあるものだったと僕は思います。これは東京の人間として、他人事ではいられないぞと震えるほどに。

↓平昌パラリンピックの聖火点灯を見ながら、東京のことを考えていきましょう!


この問題点だらけの聖火点灯を繰り返してはいけない!

よくもこんなにヒドいことになったものです!



平昌パラリンピックの聖火は、韓国と北朝鮮のパラリンピアンが1本のトーチを掲げる形で入場してきました。韓国のキム・ジョンヒョン選手はクロスカントリースキーの視覚に不自由のあるクラスの選手です。そして、北朝鮮のマ・ユチョル選手はクロスカントリースキー座位の選手、つまり足が不自由なクラスの選手です。

彼らはそのトーチを次に受け持つクロスカントリースキーのソ・ボラミ選手のコーチに渡します。コーチはソ選手の車イスに取り付けられたポールにトーチをさすと、ソ選手とともに次の走者のもとへと向かいます。

次の走者はパク・ジフンさん、パク・ウンチョンさんの親子です。親子でトライアスロンをされているとのこと。子どものウンチョンさんは難病を患っており、このリレーも車イスで行ないます。お父さんのジフンさんは、ソ選手のコーチからトーチを受け取ると、ウンチョンさんの乗る車イスのポールにトーチをセット。ウンチョンさんの乗る車イスをジフンさんが押して、次の走者のもとへ向かいます。

次の走者はアルペンスキー視覚に不自由のあるクラスのヤン・ジェリム選手。前走者のジフンさんはトーチを車イスから外すと、それをヤン選手のガイドであるウンソリさんが持つトーチに近づけ、火を移します。ヤン選手とウンソリさんはトーチを一緒に掲げ、例の坂道にある階段をのぼって次の走者のもとへと向かいます。

坂道の中腹で待っていたのはアイスホッケーのハン・ミンス選手。ウンソリさんがハン選手が背負ったリュック状のものにトーチをさすと、ハン選手は腰から伸びたロープを頼りに、先ほどまであった階段が閉じられた坂道を、義足という不自由を抱えながらも力強くのぼっていきます。

そしてハン選手が坂道をのぼりきった先には、車イスカーリングのソ・スンソク選手と、五輪のカーリングで人気となったメガネ先輩ことキム・ウンジョン選手が待っていました。メガネ先輩はハン選手が背中にさしたトーチを受け取ると、それをソ選手とともに掲げ、最終点火を行ないました。

若干のトラブルがあったのか、最終点火はなかなか装置に燃え移りません。映像がロングの引きになると、花火に紛れていつの間にか聖火台に火が灯ります。ロングの映像なので不鮮明ではありますが、どうやら五輪の開会式で見た、棒が伸びていって聖火台まで火が進んでいく方式とはまったく違う装置であるもよう。



僕は、この聖火リレーはまったくもってヒドいと思います。多くの人が面白がったり喜んだりしているのに水を差すのは忍びないのですが、まず第一に何故メガネ先輩なのだと。そりゃあ韓国で大人気なのでしょうが、この大会の主役はパラリンピアンであり、パラリンピアンが火を灯すことに意味があるんじゃないんですかと。ソ・スンソク選手はどこにいったんですかと。

よくよく映像を見ると、火がつかないことに焦ったか、最後のほうはメガネ先輩がグッとトーチを装置に近づけているでしょう。そして、ソ選手は片手を離しているでしょう。これって「主役を奪う」行為なんじゃないですか。いろんな記事でメガネ先輩メガネ先輩ネット歓喜ネット歓喜とわいていますが、そうなってしまうような演出はパラリンピックとして一番大事なものを取り違えていると僕は思います。

パラリンピアンがこの大会の主役であり、彼らの活躍を見守ることが醍醐味であるのに、「メガネ先輩が点火しました」って書かれるような演出は本末転倒じゃないですか。「五輪とパラリンピックがひとつの大会に統一される」というのは僕の希望でもありますし、そういう演出だと言えばそうなのでしょうが、ならばまずそれは五輪の開会式でやるべきでしょう。五輪とパラリンピックがひとつの大会に統一され、複数の選手によって最終点火がなされたときに人気選手だけが目立ってしまったということなら仕方ないですが、少なくとも今は違う。今はまだメガネ先輩を主役にする大会ではないのです。

そして、もっと受け入れがたいのが、この開会式におけるリレーにおいて、ただの一回も「パラリンピアンからパラリンピアンに受け渡されたリレー」がナイことです。先ほどの状況をつづったテキストではあえてそこに触れずに書いているのですが、この開会式でのリレーは「パラリンピアン⇒コーチ」「コーチ⇒お父さん」「お父さん⇒ガイド」「ガイド⇒パラリンピアン」「パラリンピアン⇒メガネ先輩」とつながっています。

ガイドやコーチの横にいるパラリンピアンとはいったい何なんだと。何で横からガイドやコーチが出てきてトーチを受け取るのかと。「共生」がテーマだそうですが、共生とお節介は別物でしょう。多少身体に不自由があったとしても、人間としての尊厳は誰しもが持つものだし、自分でできることを自分のチカラでやる自由があるはずです。できないことをサポートする必要はあるでしょうが、できることを奪うのはまったくもって筋が違う。僕があの場にいるリレー走者であったなら、そのトーチは自分が受け取り、自分の手で次の走者に渡したい。それが当たり前の気持ちでしょう。悔しいでしょう。無念でしょう。できることを奪われるなんて。

いろいろな不自由を乗り越えて、可能な限り「自分のチカラで、自分の思うように生きられる」社会へと近づいていってこそ未来が明るくなるんじゃないのかと。ましてや、リレー走者としてそこにいるパラリンピアンは、不可能に思えるようなことも可能にする超人でしょう。僕なんかよりよっぽどスキーが上手いし、よっぽどチカラがあるし、よっぽど勇敢です。何故、パラリンピアンが自分ひとりのチカラでトーチを運ぶことすらさせないような演出をしてしまうのか。それは共生なんかじゃない。演出が失敗しないように保険をかけてるだけじゃないですか。

そのくせ、ハン・ミンス選手が坂道のラストをのぼるときには、さっきまであった階段を引っ込めてロープで山登りをさせるんですよ。こんなのタダの嫌がらせでしょう。階段があるなら使えばいいんです。「ロープを使ってのぼれるんです、スゴイでしょう!」なんてのは、今そこでしなくてもいい苦労をさせているだけじゃないですか。そういう無意味な苦労をどんどん排除して、不自由があっても暮らしやすい世の中を実現してこそ意味があるのに。

最終点火の装置だって、何故五輪の開会式でキム・ヨナがつけたのと無駄に仕組みが違うのか。キム・ヨナはさらに一段高いところにのぼってから点火していたので、そこまでいかないと同じ装置が使えなかったのでしょうか。だとしたら、根本的な設計がオカシイ。パラリンピアンも使うとわかっている装置なら、パラリンピアンでも使えるモノにしないとオカシイ。あのバルセロナの「火矢で聖火台に灯す風の演出」でさえ、アーチェリーのパラリンピアンがやったことだというのに!とにかくオカシイことだらけで、僕は納得がいきません!

リオパラリンピックの開会式を見てみてください。

そこで展開された聖火リレーを見てみてください。

まったく違う。根本からまったく違う。

リオパラリンピックの聖火は、右手首から先に不自由を抱えているパラリンピアンによって入場してきます。左手で持てばいいだけなので、もちろん何の困ったこともありません。トーチは次走者である脳性まひという不自由を抱えたパラリンピアンのマルサルさんに渡されます。マルサルさんは杖を支えに一歩ずつ歩みを進めていきます。腕のチカラに対してトーチが重いのか、トーチはときおり大きく揺れます。

そして、マルサルさんは聖火リレーの途中でトーチを取り落とし転倒します。すぐさま駆けつけた係員は、マルサルさんが立ち上がるのを助けると、落としたトーチを手渡します。マルサルさんは再び歩みを進め、数メートルの距離で係員はそれを見守ります。

次走者は視覚に不自由を抱えたパラリンピアンですが、マルサルさんは次走者の手にしっかりとトーチを差し伸べ、傍らにいたガイドはヒジを支えて確実にトーチをつかめるようにサポートします。ガイドが受け取って渡すのではなく、パラリンピアンが受け取る、その主体のありよう。ひとつのチーム、同格のパートナーであっても、やるのはパラリンピアンなのです。いざ走り出す段では、もちろん手をつないで伴走をしますが。

そして、聖火は最後の走者へ。ガイドがヒジを支えてトーチとトーチが接するように導くと、最終走者のパラリンピアン、シルバさんのトーチに炎はしっかりと燃え移ります。シルバさんは脳性まひという不自由を抱えながらも、車イスを自分で操縦し、自分でトーチをポールにさします。

そして向かった聖火台。しかし、目の前には階段です。これは車イスではのぼれそうにない。サポートが必要だ。そう思ったとき、階段は形を変形させ、階段でありつつもスロープも備えるような形状になります。「あぁ、これなら階段としても使えるし、車イスの人でも自分自身でのぼれる」と納得できるアイディアデザインです。

シルバさんはスロープを利用して上段にのぼると、再びトーチをポールから抜き、五輪の開会式で使用されたのと同じ装置に点火します。五輪と同じように聖火が灯ります。ずっと雨が降っているという恵まれない気候のなかではありましたが、素晴らしい笑顔が美しい聖火に照らされていました。

↓危ない場面も確かにあるけれど、それも含めてチャレンジできるのが人生!(※聖火リレーは3時間42分頃から)


できることは自分でやりたい!

できないことを減らしたい!

できるかどうかわからないならチャレンジしたい!

困ったときは助けてほしい!



「自分がやりたいことを、自分のチカラでできる」というのは本当に素晴らしいことです。もちろん何もかもをできるなんてことはありません。でもなるべくやりたい。なるべくやれるように知恵を絞りたい。助けるのは最小限で済むように。最大限に自分のチカラを活かせるように。それが人間の英知なんじゃないんでしょうか。

今回の平昌パラリンピックの聖火リレーは、その英知を真っ向から否定するようなものだったと思います。体裁は整っていたし、盛り上がったのかもしれないけれど、パラリンピアンができたはずのことをこれっぽっちもやらせていない。共生の名のもとに、演出が失敗しないような保険をかけまくっている。そして、無意味なロープ山登りは組み込んでいる。ロープ山登りが必要なのは、本物の山に挑むときだけです!

平昌側で考えたのか、IPCがこうせよと押し付けたのか、本当の事情というのは当然わかるはずもないのですが、とにかく東京では絶対に真似してほしくないような聖火リレーでした。パラリンピックがパラリンピックとしてある限りにおいては、パラリンピアンが最高に輝く大会であってほしい。2020年を控える者として、僕はそう思います。心から!


こういうのを「反面教師」って言うんだな、と思いました!