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アスリートが「先」、メディアは「後」です!

アスリートとメディアとの関係というのは僕らファンにとっても重大な関心事です。先日、大坂なおみさんが全仏オープンでぶち上げた会見拒否の件は、多くのアスリートを巻き込んだ議論となった果てに、ついには大坂さんの大会棄権という極めて残念な形に至りました。1日未明に更新された大坂さんのツイッターでは大会棄権を表明するとともに、2018年頃からの心労とうつ症状に触れるような文言も見られます。改めてこの「長く存在する問題」について自分でも考えましたので、記録のために書き残しておきたいと思います。




まず、総論としては「アスリートにはメディアへの対応も自分の活動の一端として、全力で取り組んで欲しい」というのが僕の意見です。スポーツとメディアは持ちつ持たれつの運命共同体です。ライブエンターテインメントであるスポーツは、誰かがカメラを担いで中継をし、誰かが速報記事を書いて配信することによって、街の片隅で行なわれる遊戯から、世界に広まるエンターテインメントへとなります。

次の一瞬に奇跡が起きるのか絶望が生まれるのか、その日その時その瞬間にしかない答えを見守ることの喜びは、本来スタジアムのごく限られた人だけが楽しめるものですが、メディアの存在によって世界中のあらゆるところに喜びを伝えることができます。その結果として、アスリートの活動は数万人規模に留まらず、世界の数十億人という人に伝わり、勇気や感動が広がり、賛同や共感を生み、富や名声が得られます。

そして、同時に多くのフォロワーが生まれます。テニスの大会であれば、自分もテニスをやりたいと思う子ども、子どもにテニスをやらせたいと思う親、テニスを応援したいと思う人たち、テニスを支えたいと思う企業が生まれ、それらの存在が競技の発展につながります。たとえば、街にテニスコートができたりします。自分自身がそういった「環境」に支えられて今その場にいることは忘れてはいけない現実です。自分がテニスを始めるより前に、テニスコートを作ってくれた誰かがいる。その環境から受け取ったものを「お返し」するのは成功した者のつとめです。

大会の賞金、スポンサーからの活動費、競技の人気、名誉や敬意、すべてが世界でどれだけの人に見られたかに左右されています。そして、その視線の大部分はトップアスリートに注がれます。相撲で言えば横綱です。横綱には場所を守るつとめがあります。横綱ひとりが若い衆何百人を支えるのです。相撲もテニスも「1人」ではできないものですから、自分だけのことを考えてはいけないのです。強い者にはそれだけ大きな責任が生まれるのは、スポーツに限らずどの世界でも一緒です。自分が打ち負かした相手にもそれなりの幸せが訪れるように、競技全体を牽引するのは強者の責務です。その場に留まりながら責任だけを拒むのは、賛同されず、敬意を生まない行為だと僕は思います。


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とは言え、どんな要求にも従わなければいけないというのも違うでしょう。メディアの側にも問題があります。自分たちが拡散してやったことでこんなに富が生まれているじゃないかという驕りがあります。自分たちの求めに応じるのは当然であると考えているフシがあります。その場その場でせわしなく、自分たちが欲しい「素材」だけを奪い取っていくような身勝手さがあります。数十年の努力の果てに実った果実の、甘いところを一口だけかじって捨てるような、傲慢さがあります。

答えづらいことを聞く、都合の悪いことを聞くのはメディアのつとめだとしても、工夫もなく何度も同じことを聞いたり、さっき聞いたばかりのことを聞いたり、無関係の話を持ち出したりするのはメディア側の「力量不足」だろうと思います。ましてや「自分たちが聞いた自分たちに向けてのコメント」が欲しいがために、時間を無駄に消費するような質問をするのは、世界の誰も得をしない行為です。それがやりたいのなら、せめて大会を主催する側にまわって役得としての代表質問を握るべき。主催者であるならば、存分にお話もできるでしょう。

奇跡のようなプレーを魅せたアスリートに相対するなら、メディア側にも奇跡のようなスーパープレーが求められます。上手いことを聞くなぁ、新たな視点を生むなぁというプレーをメディアの側も披露してこそ、対等な関係です。そうした質問は必ずアスリートにとってもプラスになります。自分の課題に向き合い、それを言葉として整理することで、自分自身でも意識していなかった心の形が明らかになることがあります。記事となったものを読み、本意が上手くまとめられていたり、あるいは「そうではないな」と気づくことで、考えは整理されていきます。

アスリートは「テニス」や「相撲」や「野球」の専門家であって、必ずしも言葉や思索に長けているとは限りません。そうした人の言葉を一種の義務として求める以上、「会見に応じることで自分の感情を整理することができ、記事を読むことで自分の考えを深めることができる」と思ってもらえるくらいであってほしいし、そういう時間であるならば無下に拒絶されることもないでしょう。

乱暴に言葉をぶつけ、わざと怒りを引き出すように仕向け、失言を切り取ろうとする悪意を、アスリート全員に「上手くかわす」「巧みにいなす」ことを期待するのは間違っています。そういうことも上手くこなせるように慣れていくほうがいいですし、上手くできるほうがより素晴らしいとは思いますが、「できなければいけない」とするのは行き過ぎです。アスリートはコートやグラウンドの上でボールやライバルを相手に戦うことに人生を懸けているのですから、それ以外の場面では周囲がサポートをしてあげるべき。甘い果実をかじりに来たのか、その果実の素晴らしさを世界に広めるために来たのか、心持ちが違えば態度も変わるはずです。それが「持ちつ持たれつ」です。


どれだけメディアのチカラや貢献があったとしても、最初の最初の原初の「光」を生み出しているのはアスリートです。たとえ世界の誰が見ていなくてもラケットでボールを打ち始めた人がいて、その対戦のなかで際だって上手い名人が現われ、その人が自分の技能を磨き、他人を魅了するまでに輝かなかったなら、そこに原初の「光」がなかったのなら、どれだけ世界に広めても何も起きません。何の見返りがなくても光を放ったアスリートがいてこそ、この価値は世界に広がるものになるのです。アスリートが先、メディアが後、この順番は永久不変です。

だから、四大大会主催者側が共同の公式声明で「今後も記者会見の拒否を継続する場合は全仏オープンの失格処分や、将来的なグランドスラムの出場停止など、より厳しい制裁を受けることになる」と、一種の脅しをかけた行為については誤りです。「後」であるメディアを上において、「先」であるアスリートを排除するのは明確な間違いです。メディア対応を拒否すれば、当然のこととして業界内での敬意が失われ、スポンサーからの支援も薄くなるかもしれませんが、つとめを果たさなかったぶんの帳尻合わせはそこまでで終わりです。突き詰めれば「金」の問題であることの埋め合わせは、「金」までで終わりです。罰金があるなら払えばいい。スポンサーが離れるならば仕方ない。ただ、「光」を奪われたり、損ねたりしてはいけない。

大会主催者は原初の「光」を放つ強いチカラを持つ人を大事にしないで、世界にどんな価値を広めようと言うのでしょうか。その「光」が失われるように仕向けてはいなかったか、大坂さんの大会棄権という残念な決着について、今一度自分たちの姿勢を見つめ直してほしいと思います。試合で放つ「光」を超える会見などあるはずがないのです。一番大事な価値を蔑ろにするのは間違いです。脅しだとしても、してはいけない行為です。アスリートが「先」、メディアが「後」、守る順番を間違えてはいけないと思います。





「持ちつ持たれつ」のアスリートとメディアが良好で発展的な関係を築くのは、ファンにとっても大事なことです。今はSNSなどもあり、アスリートが心情を自ら発信することも増えましたが、それで十分なわけではありません。もっと聞きたいことや、教えて欲しいこと、伝わったら大きな価値をもたらすことがあるのに、それを「アスリート本人のやる気」のみに委ねるのは不確実です。

美しく輝く瞬間を撮影するプロがいて(自分でスマホ握らなくてもOK!)、言葉を記録するプロがいて(自分でキーボード打たなくてもOK!)、それを世界に伝える媒体がある(ありとあらゆる言語でSNSやらなくてもOK!)。そういう人たちがいれば、自分は「光」を放つプレーに集中できます。マッサージや食事の準備や用具の手入れをサポートメンバーに任せるのと同様に、メディアを活用することには価値があります。

ちゃんとメディアを活用してほしいし、だからこそメディアも旧来のやり方に固執せず、これまで幾多のアスリートが陥ってきたような「メディア対応が不得手であることによって、大切な光が失われる」という悲劇は繰り返さないでほしいと思います。「金を払ってるんだから、何を聞いてもいいんだ」ではパワハラと同じです。それを解決するにはパワハラと同じように、「透明性」と「第三者の介在」と「同意」の徹底が必要だと思います。

ひとつに、透明性を担保するため、選手に義務として課す公式会見は主催者によって完全生中継され(※広報担当がスマホでYouTubeに流すだけでもよい)、発言の一方的な切り取りなどを防ぐこと。ひとつに、選手の傍らには第三者としての代理人が介在し、無関係な質問や挑発を選手に替わって排除すること。ひとつに、応じる義務はあっても答える義務はないことを再認識し、お答えするかしないかの同意を都度確認しながら応答を進めること。

「そんなこと言ってない」を検証する仕組み。

「その質問は関係ない」を指摘する誰か。

「今はお答えできません」を受け入れる文化。

この3点の徹底で、アスリートが背負うメンタルヘルスの問題を改善してほしい、そう思います。こうした仕組みを徹底することで、より価値のある応答が生まれるものと僕は思います。無闇に挑発的で怒りからくる失言を狙うようなものでもなく、ただ聞いてもスルーされるような安直なものでもなく、アスリート自身が自問自答してしまうような問いを投げかける。そういうことが成熟していったら、会見が苦手なアスリートもストレスに思わず、会見が得意なアスリートはより自分の価値を高められるような世界も生まれるのではないでしょうか。

持ちつ持たれつ、です。

今、大坂なおみさんに批判的な向きが生まれているのなら、それを解きほぐすようなメディアがあってもいいと思います。拒絶されたことに憤って責め立てるのではなく、不十分な伝わり方をしていると思われる真意を解きほぐし、それを広めることにこそメディアの矜持があるはずです。「自分で言うより、言ってもらったほうがええわぁ〜」って思われないで、伝えることのプロがどうしましょうや。





テニスが上手い人を大事にしないで、どうして明るい未来があるというのか!