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即興力が問われる時代、人間性は最重要指標のひとつ!

最近ずっとAIの恐怖に震えています。AIに取って代わられるという恐怖、早くAIがコイツを取って代わってくれないかなぁと周囲から思われているんじゃないかという恐怖。自分も野球の審判とかに向かって「ストライクとボールの判定はAIでいいんじゃないですかね?」とか言っている手前、甘んじて受け入れざるを得ないのですが、「AIに比べて自分は何と無能な…」と、これまで以上の無能感に苛まれています。

そして、人間対AIという観点だけでなく、人間対人間の観点でもAIの存在によって取り残されていく未来が確実に迫ってきているなと震えます。最近聞いてビックリした言葉に「SNSなんだからちゃんと盛れ」という言葉がありました。意味としては、SNSに載せる写真はしっかりと加工をして、表現を整えて、よりよく見える状態で掲出するのが当然のマナーである…という感じの意味です。僕はその言葉を聞いて、まさに落雷を受けたような気持ちになりました。

SNSで加工をバリバリ効かせた写真や動画を載せている人を見たとき、僕はこれまでずっと「ウソつきの人」だと思ってきたのです。本当の自分を隠して、自分をよく見せようとウソをついている不誠実な人なのだと。あの「一発録りです」みたいな触れ込みの歌ってみた動画に対して、「あのライブ映像に比べてめちゃウマですね」「あの映像は一発撮りだとしてもあの音声はバリバリ直してますよね」「あの歌は100年かけても生では録れないと思う」などと否定的な目で見る感じで、あらゆる「盛ったもの」に対してウソつきだなぁと思いながら、うっかり指摘してしまわないように心からそっと逃がしてきたのです。

しかし、時代はもうそういう段階ではなかった。

ファッションやメイクが当たり前のものとなり、むしろそうした要素をTPOに合わせて整えるのが社会規範となった現代。それがどうして「SNS」という公共空間だけはありのままでいられるでしょうか。ファッションやメイクは当然のこととして整えるなかで、SNSというデジタル空間ならではの追加要素である「加工」は施さないというのは、むしろマナー違反なのではないかと。自分が思っていたことと真逆のほうに世界の正しさは向かっていっているのではないかと気づいたわけです。

確かに、少しでも自分の印象を良くし、自分の思いを正しく伝えようとする努力はSNSのなかでも行なわれるべきであり、それが加工によって満たされるのであるなら積極的にやるべきかもしれないなと思います。「あなたそんな感じじゃないですよね」とツッコミながらありのままの姿を求めるのは、ビジネスの現場において「私のありのままの普段着であるTシャツとジーパンです」とやってくる態度の悪そうな企業家モンを支持するような、時代と逆行する態度なのではないかと思い至ったわけです。騙すためのウソではなく、正しく伝えるための身だしなみがデジタル空間にもある、そんな気づきです。

今はまだAIは「一部の技術者」だけが使うツールといった雰囲気もありますが、早晩そうした技術が普及していったとき、自分自身もまたAIをしっかりと使いこなしていかないと、人間同士のなかでも取り残されていくんだなと思うのです。写真や歌声だけでなく、こうしたテキストだってありのままの不適切な発言が残らないように、身だしなみとしてAIチェックをするようになるのでしょう。僕らが今「何でも紙を要求するスマホ持ってないオジサン」を見るような目で、「何でもありのままで出してくるAI使えないオジサン」が冷ややかに見られる世界が近づいてきている。そんなことを思って震えるのです。

↓確かに、しっかり身だしなみを整えてもらったほうが楽しくなりますよね!

SNSなんだから、ちょっとモヤ出すくらいするのがマナー!

「自分が見せたいもの」と「みんなが見たいもの」が一致するように努力するのは、むしろ誠実!



という新たなAI未来世界が訪れたとき、人間に求められるのは即興力だろうと思います。将棋などを見ていても思いますが、AIが示す手が実際に強くて人間を凌駕するものだとしても、「もうAIのほうが強いんで解散!」とはなりません。むしろ、強いAIに迫るような優れた手筋をその場の即興で紡いでいく人間の凄みが際立ち、それが新たなエンターテインメントとなっています。「AIみたいな手が打てるなんてすごい!」と見る側のレベルもアップしていくのです。音楽だって完璧なMVで聴けば済むものではなく、会場の雰囲気に合わせて感情をこめたりアレンジしたりする即興性によってライブは盛り上がっていきます。その場の瞬間瞬間で何ができるのか。その判断と対応を即興で人間がやることが、とても価値の高い、希少な行為になっていくのだろうと思うのです。「AIを駆使してギリギリまでチューンした以上のものが、即興で紡がれていく」その鮮やかさへの「人間ってやっぱりすごいなぁ」という感動とともに。

スポーツなどもその即興の最たるものです。機械でやればもっとすごいことができるのだとしても、あえて人間がやる。上手くいったところの映像だけをつなげばもっと見事な演技に仕上がるのだとしても、あえてその場で即興でやる。その場の即興で紡がれる一度きりのプレーだからこそ生み出せる感動がありますし、その一度きりで消えゆくその場限りのものだからこその尊さがあります。その即興のために、何度か撮り直してもいいならもう十分に仕上がっている演技を100万回も練習したり、どんな不測の事態にも対応できるように技術を磨いたりしているのだと思うと、誰かが人生を捧げた没頭の上澄みをいただくような、とても贅沢なエンターテインメントなのだなと改めて思うわけです。

だからこそ、今まで以上に人間性というものが問われるようになると思います。

あらゆる方向からカメラが映像を残し、それが即座に分析されるようになっていくなかで、単に何かすごいことをできるとか勝った負けたということではなく、その瞬間瞬間で人間が何をしたか、何を示したか、そういうところがより細かく注目されるようになっていくのだろうと思うのです。勝敗や記録といった結果以上に、その結果に迫る過程でどんな一瞬の即興というものが生まれたのか、それによって結果自体の価値さえも変わってしまうようなことが起きていくのだろうと思います。表情ひとつにしても、舌打ちしながらのイヤーな感じの勝利なのか、苦境をも楽しむような爽やかな態度での勝利なのか、それによって生み出される価値や感動が変わるし、ときに敗北にも等しい勝利が生まれたりするのだろうと。

先日来世界で話題となっているテニス全仏オープンでの加藤未唯さんの失格の件もそうです。あの試合、加藤さんは失格と判定され、対戦相手のペアはそれによって勝利を手にしたわけですが、本当に残ったものはまったく逆の価値を持つものでした。加藤さんの「もしかしたら、やや強かったかもしれない返球」は、失格になるような行為とは到底思えないものでしたが、結果としてボールパーソンの少女に当たってしまいました。その不幸を加藤さんは「苛立ち」ではなく「申し訳なさ」で受け止め、不可解な判定ながらも失格という処分に従って、その場を去りました。判定を不服として荒れ狂う道や、何かに八つ当たりをするような道だってあったかもしれないシチュエーションでしたが、その態度は真摯なものでした。その後の、各方面へお詫びをしつつも、しっかりと自分の主張は表明するという行動も含めて誠実でした。

一方で対戦相手はそういう不幸な状況をむしろ「幸運」と受け止めたか、審判に対して何らかのアピールを行ない、ベンチでは笑顔を見せるような一幕が映像で捉えられていました。選手にとって試合をすることは何よりも大切なことであるのは同じ選手として理解が及ぶはずなのに、相手の不幸を思いやる気持ちだけではない部分が垣間見えてしまった。結果的にそのペアは、その試合での勝利こそ手にしたものの、大きな批判の対象となり、そうした批判的な空気も影響したか、つづく試合では敗れてしまいました。悪夢の失格から一転、加藤さんが混合ダブルスでは優勝したのとはまさに対照的で、敗者だった勝者と勝者だった敗者へとクッキリと明暗が分かれました。





その明暗を分けたものがあるとすれば「人間性」だろうと僕は思います。自分が生み出した不幸をどう受け止めるか、相手が生み出した不幸をどう受け止めるか。その場の即興での対応を左右した「人間性」というものが、体力・技術・戦術以上にこの試合の結果の価値を変えました。そして同じようなシチュエーションはこうしたアクシデントに限らず、試合のなかで数限りなく訪れます。試合のなかではいいプレーもあれば、悪いプレーもあります。そのひとつひとつに即興でどう向き合うか、それによって世界は即座に変わっていく…そういう時代なのだろうと思うのです。これまでもそうだったのかもしれませんが、これまで以上の精度と速度でそうなっていくのだろうと。プレーに夢中になっている合間に滲む抑えの効かない感情が、拡大され拡散され大きな影響を及ぼすようになった現代社会において、それを制御する「人間性」は即興を生業とする者すべてに求められる重要な能力となるだろうと。最高に興奮する勝利の瞬間だからこそ、我を忘れる瞬間だからこそ、我を忘れても美しくいられることが求められるだろうと思うのです。

昨今は「すごい選手は人間性も優れている」ような気がしますが、偶然ではないだろうと僕は思います。即興を生業とする者はすべて、一瞬一瞬を問われているし、一瞬一瞬で世界が変化しているのです。すごい選手でいるために必要な支援やサポートや応援も、一瞬一瞬で変化しています。世界の「見る」チカラが増したぶん、より細かく、より素早く、世界が変化しているのです。たったひとつの舌打ち、たったひとつの言葉遣い、たったひとつの表情で、すべてが様変わりしてしまうくらいに。それを良い方向に導けるものがあるとすれば、「人間性」しかないのです。練習だけでは身につかない、人生すべてで培うチカラの重要性がより増しているのだと。

「結果さえ出していればいいじゃないか」と言ってあげたい気持ちもゼロではないのですが、そうは思わない人もたくさんいて、そういう人たちの気持ちも影響するのが今のSNSだったり社会です。そこで結果を出していくために、「常に半分くらいの人から嫌われている」なんて環境ではどれだけ体力や技術があってもままならないというもの。体力・技術・戦術があればある程度は緩和されるとしても、高い人間性というものを育んでいかないと、より一瞬一瞬の即興の価値が高まる未来においては、上手く生き抜いていけないだろうと思うのです。

僕もいちプレイヤーとして自分を見たとき、メールやテキストだと何とかオブラートでグルグル巻きにして底意地の悪さや短気さを隠すこともできるのですが(※隠せてない説もあるが)、リアルタイムの会議やプレゼンテーションになると途端にそういったものが露見してしまう日々です。普段から思っていることと、普段の暮らしぶりが、やはり即興の場面では出てしまうなぁと反省するばかりです。人間性を育んで「会議でキレる」「慣れると舐める」「ナチュラルに失礼」を直していかないと、いつも穏やかなAIには太刀打ちできないなと思います。ホント、全力で運動したあとに意地悪な話とか振られても舌打ちしない選手たちとか、その時点で相当な偉人だなと思いますからね!

↓どんな世界で戦うかの影響はほんの少しだとしても、そのほんの少しで未来は変わっていく、はず!
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人間性が伴わないままトップに行けるような時代ではない、そう思います!