2023年11月07日08:00
「RE_PRAY」を深読みした「諸説」をお届けします!
一昨日からつづけて書いていた「RE_PRAY」についてのブログの内容、あれは的外れだったかもしれません。下準備のゲーム解説部分を消すのは忍びないのと、「人生論」みたいな部分では公演内容に通ずるところもあると思ったので、調整しながら消さずに残してはいますが、この違和感に対応した内容を語るには頭から全部書き直す必要があるので、頭から全部別の内容で書き直します。
新たな解釈に取り組むキッカケとなったのは、5日公演のあとで羽生氏が語ったという「解釈の糸口」です。僕は公演自体は見られていないので伝聞ですが、羽生氏は「これは羽生結弦の物語ではなく」「映像のキャラクターや演技している僕はゲームのなかの出来事」「非現実」なのだと言います。第1部が競技者生活をベースにしたストーリーで、第2部がプロ生活をベースにしたストーリーとすると全体的にすんなり理解できそうに思っていたのですが、これではどうも話が噛み合いません。そして羽生氏は「観客の皆さんがプレイヤーであり神様」「キャラクターに支配されていませんか?」などの言葉も残したと言います。一言一句正確ではないかもしれませんが、いくつかの報告でそうした言葉を見ていったとき、どうにも拭えない違和感が生まれてきました。
そして、改めて「RE_PRAY」を見返すなかで、まったく異なるある解釈に至りました。前回までの解釈のほうが素直かもしれませんが、ほかの読み方があるかもしれないという思いが強まりました。これはまさしくストーリー作品で、我々観衆を叙述トリックに巻き込むダークファンタジーだったのかもしれないという思いが。なので、これからまったく違う(もしかしたら不謹慎な)ことを言い出しますが、数多の解釈の2種類をひとりで出していると思っていただければと思います。「解釈はいろいろあっていいよね」という「諸説ある」の気持ちで。
↓「諸説」を真に受けないように制作者の解説を踏まえて、遊びとしてご覧ください!
【羽生結弦さん 語る(1)】RE_PRAYという物語「考えるきっかけの1つであってほしい」https://t.co/6faBEgzowG
— スポーツニッポン新聞社(スポニチ)【公式】 (@sponichiannex) November 4, 2023
【羽生結弦さん 語る(2)】これまでのショーと「全然違った心意気で挑んでいます」― スポニチ Sponichi Annex スポーツ https://t.co/gmjjXtGZ5p
— スポニチ記者ツイート スポーツ (@sponichisports) November 4, 2023
※以下、独自の解釈ですので「諸説」程度にご覧ください。
まず「解釈の糸口」が本人から出てきたこと自体が違和感の始まりでした。ヒントを出すというのは、何かが違っていて、それを解かれたい、でも答えは隠したいという意味です。そして、出されたヒントには気になる点があります。ひとつは「キャラクターや演技している自分はゲームのなかの出来事」「皆さんがプレイヤーであり神様」と強調したらしい点です。まぁ素直に受け取るなら、「皆さんの人生の主人公は皆さんです」という話だろうと思います。なので、社会のなかで演じている役割とかに支配されたり流されたりするのではなく、自分自身の選択で自分の人生を生きていってくださいといったメッセージであろうと。ただ、それならばそのまま丁寧に伝えてもいいのではないかと思うわけです。あえて「糸口」で留めることなく。
なぜそこにこだわるかと言うと、この「RE_PRAY」という作品がゲーム「UNDERTALE」に強く影響を受けているからです。詳しくは言いませんが、このゲームのなかでも最大級の衝撃と言えるものに「自分だと思っていたキャラクターが実は自分ではなく、自分は世界でもっとも恐ろしいサイコパスだったと気づかされる」という仕掛けがあります。もしこうした類の脳が揺さぶられるような衝撃が「RE_PRAY」に影響を与えているのだとしたら、メインのテーマだったり、大筋での解釈とは別に、純粋なゲーム性という部分において何らかの謎が仕組まれていても不思議はないなと思うのです。トロッコ問題の選択肢が変わることや、第1部と第2部でリプレイを行なうような類のものの、なかなか見つからない何かが。
そうした「謎解き」の目で「RE_PRAY」を見て行ったときに、気になる点が出てきました。「RE_PRAY」のなかでときおり出てくる違和感のある「やけにダークな言葉たち」は誰から誰へ向けたものなのかという問題です。僕らは全部同じ「羽生結弦」と思って見ているわけですが、もしも同じ人物が何役も兼役をしながら、複雑な会話劇をひとりで構築していたとしたら…?僕らには「誰が誰なのかわからない」がゆえに「誰が誰なのかずっと間違えている」という可能性があるとしたら…?その観点で見ていったときに、新しい解釈ができそうだと思ってしまったのです……。
●第1部オープニング
会場の大型ビジョンではテレビモニターを模した映像。同じ映像をモニターで見る人物がコントローラーを握り、公演日と思しき年代不詳のセーブデータで「PLAY」を選択。リンク上に人物が現れる。以降リンクに現れる人物は基本的にゲームキャラクターであり、この舞は「ロード画面」に相当するものではないか。まだこのキャラクターは幕(セーブデータの壁、あるいはメモリーカード)に閉じ込められており、どれだけ抗っても外に出ることはできない様子を見せている。
●いつか終わる夢-original-
このゲームのオープニングムービーに相当する部分か。「ファイナルファンタジーX」世界での「主人公ティーダは召喚術によって生み出された実体のない夢」であることを、「RE_PRAY」のゲームキャラクターに重ねているのではないか。公演最後のセリフを鑑みると、この演目、この「夢」こそが主題と言えるかもしれない(後述)。演技後にカメラを覗き込む演出は「ゲームキャラクターが現実世界=観衆=プレイヤー=神様を覗いている」ということを示す演出か。
●インターバル(激流に飲まれていた)
第1部では過去形の「飲まれていた」で始まる。「押し寄せる流れに抗うことはできない」は誰の声か。流れてくる岩を避けるゲームプレイの映像と合わせると、ゲームキャラクターの声ではないのか。そして「数多の生物の命 それを横目に生き永らえている」のは誰か。光の球が命だとすると、コントローラーを握る人物のことではないのか。だとすると「(命を)手にすれば、この激流から逃れる力を手に入れることができそうだ」は、コントローラーの人物の傍らにある命をゲームキャラクターが手に入れれば、このゲーム世界から脱出できるという意味になるのではないか。「流れる命を手にする YES」の選択でモニターの画面奥へ光の球が入っていく描写がある。コントローラーの人物を操作して、命をモニター内に取り込んだ?
「息をする できない やめる」の赤文字がモニターに表示され、コントローラーを握る人物が意識を失う描写がある(「気がつく」というセリフがあるので気絶は確定と見る)。モニターに表示した文字によって、コントローラーを握る人物に(暗示または催眠術的な)影響を与えた場面と考えられるのではないか。「同じスーツを着ているだけ」で、ゲームキャラクターとコントローラーの人物と、ふたりの別々の人物が羽生氏によって演じられているとしたら…?
●鶏と蛇と豚
生きる感覚を得たキャラクターの心象風景か、あるいはゲームプレイの一部か。歌詞の「蜜を喰らう(和訳)」「実際には毒だった?(和訳)」の部分が、直前の命を喰らった場面にリンクする。ゲームキャラクターが命を持って動き出すが、まだ赤いレーザー光のなかに(ほぼ)囚われている。それでも「生きたいという決意」を固める。「私がこの世界のルールだ」と世界を支配する決意を示す。せり上がりの台では心臓の鼓動のような音と光がある。せり上がる=「観衆(=プレイヤー=神様)と同じ場所へ至る」ことを暗示する。
●インターバル(トロッコ問題)
ゲームプレイの様子。リンク上にドット絵キャラクターが表示される上をキャラクター(鶏と蛇と豚)が通過していくのは「人間の演者もドット絵も同じもの」という示唆か。ゲーム内で強くなることで自由を手にした気になったが、そうではなかった。所詮はプレイヤー=神様=観衆の選択次第で、消されてしまうものがある。どれだけ強くなっても自由にはなれないことを悟る。自由になるには、「プレイヤーを何とかする」しかない…。
●Hope&Legacy(または阿修羅ちゃん)
ゲームプレイの様子。さまざまなステージでさまざまなバトルをしながら、次第にチカラをつけていく。
●インターバル(岩バトル)
さまざまな選択と犠牲の上に強くなってきたことへのためらいを見せる言葉はゲームキャラクターたちの心情か。モニターには「戦いの決意」「破滅への決意」の選択肢が表示されているが、「この世界で生きていくこと」「世界に挑み続けよう」と一旦は決意する。コントローラーを握る人物とゲームキャラクターは岩が落ちてくるステージに挑んでいる。何度も何度も挑む。ゲームキャラクターは何度も何度も死につづける。
その果てにモニターには「おまえ、ここに来るまで いちども死んでないよな?」の表示、その後「それとも、何度死んできた?」の声。これは誰の声か。「いちども死んでない」のはコントローラーの人物(=プレイヤー=神様=観衆)なので、このセリフを発したのはゲームキャラクターと思われる。その後の「それとも、何度死んできた?」は「UNDERTALE」においてサンズが「プレイヤーがコンティニューして再挑戦してきた回数を数えていること」のオマージュを感じる。コンティニューで殺されつづけたゲームキャラクターが、コントローラーの人物(=プレイヤー=神様=観衆)に対して、具体的な反抗や反発を開始したことの示唆か。
●Megalovania
「UNDERTALE」のサンズ戦になぞらえて、ゲームキャラクターの抵抗を示す場面か。滑る人物は青と黒の衣装、肩にガイコツがあるのでサンズに相当する。プレイヤー(=神様=観衆)にあえて聞かせるように蹴りつける氷の音は攻撃の意志。演者の激しい手の動きやモニターで繰り出す上下左右への動きは、サンズの攻撃と同じ種類のプレイヤーへの攻撃。リンクにはサンズが放つ砲撃のような線が走っている。攻撃を受けているのは誰?コントローラーの人物?それとも観衆?
●インターバル(ボスバトル⇒6分間練習)
クリスタル状のものに導かれ、メガロバニアのドット絵が扉を開ける。「ようこそ」と迎えられ「好奇心だけで区々たるモノを踏み台にしてきた気分はどう?」などと口上が始まる。この口上は誰に向けたもの?ボス⇒ドットキャラだと筋が通らない。戦わされているゲームキャラクター双方からの「この戦いを見たがっているプレイヤーに向けた口上」と考えられないか。「選んだのだろう?」「見続けるという選択を」「この世界を見たいという心のままに」はゲーム世界で虐殺を繰り返すプレイヤー向けの口上だと考えれば、ここまでのトロッコ問題での選択などと合致する。このステージではリンク上に多数の目玉が映っており、何者かの視線をゲームキャラクターが感じていることが示唆されている。
やがて最後のドットキャラとして「破滅への使者」が選択される。しかし、この直後にボスキャラクターは破滅への使者によって破壊される(爆発消滅まで映っている)。ボスを撃破したのち、破滅への使者は扉を開けて、リンクに演者が登場するが誰と戦うのか。コントローラーの人物?プレイヤー?
「選択しよう」「あなたの世界に越えるべき壁はありますか?」「壊すべき壁はありますか?」の表示後、破滅への使者がYESを選択する。選択肢があるということは「あなた」はやはりプレイヤー?この選択肢は誰が選んだ?「YES」しかないのであれば強制的に選ばされたとも言えるのでは?「あなたの世界の越えるべき壁」とは何?
6分間練習中もアイスストーリーは途切れない。流れる楽曲は出典となるゲームでボス戦に臨むときの曲。「戦う」「こわす」「闘う」「コワセ」「進むために」などの声。これは出典となる「ファイナルファンタジーIX」のようにゲームキャラクターたちが集って次々に主人公へ言葉を掛けるという演出ではないのか。だとすると、これはボスに挑んでいたドットキャラクターたちの声なのではないか?では残り1分頃に出てくる明らかに声色が違う「おれの決意が」「やっとだせる」は誰の声?生き残っているのは「破滅への使者」ひとりなのだから、最後の声は「破滅への使者」の声なのではないか?
この世界で「戦いの決意」を固めた現状(=ゲームプレイ)に前向きなキャラクターたちがボス戦で倒れていくなかで、最後に残った「破滅への使者」への「コワセ」の賛同が高まり、先のインターバルでは選択されなかった「破滅への決意」が選択されたということではないのか?「越えるべき壁」「壊すべき壁」を破壊して「破滅」に向かう決意とはどういうことか?
●破滅への使者
破滅への使者は何かと戦っている。演技を完遂することで目的が達成され「CLEAR」と出る。先ほどのボスとの戦いなのか?しかし、すでにボスは倒してしまっているし、破滅への使者のあとにボスが破壊された演出はない。では何と戦っていた?「壊すべき壁」があると言ったキャラクターが何かを「CLEAR」したあとに壊れたものがひとつだけある。壊れたのは「セーブデータ」。やはり最後に戦っていた相手はプレイヤーではないのか?プレイヤーを倒す=セーブデータを破壊してプレイをなかったことにする、なのではないか?そして、自らも一緒に消滅することが「破滅」なのではないのか?確かにセーブデータを破壊するゲームキャラクターがいたら、どんなプレイヤーでも勝てない……。
●第2部オープニング
第1部の演技内容に相当するものがダイジェスト的に映される。これは「第1部はなくなったわけではない」「別世界ではない」という意味。そこで起きたセーブデータ破壊を経た世界でリプレイが行なわれている。しかし、同じ日付の同じセーブデータを選んで開始しているはずなのに、ロード画面部分で第1部にあった幕はない。代わりに光の囲いのなかで同じような舞が行なわれている。「あなたの世界の壊すべき壁=現実とゲームを隔てる壁」が壊れつつあるのではないか?もうすでに壊れている?
●いつか終わる夢;RE
このゲームのオープニングムービーに相当する部分か。同じ演目で始まりながらも、タイトルや構成が変化しているのは第1部とは違うルートへ「分岐している」ことの示唆。第1部よりも希望に満ちている。嘆きの言葉は表示されない。天に手をかざして終わるのは何らかの希望を示すものか。またもプレイヤー(=神様=観衆)を覗き込むようにして終わる。
●インターバル(激流に飲まれている)
第1部では過去形の「飲まれていた」だったものが第2部では「飲まれている」へと時制が変わる。これは「今」ということ。つまり第1部は過去編。ここからがゲーム本編。
第1部と同じ選択の場面、今度はコントローラーの人物が「流れる命を手にする?」に対してNOを選ぶ。暗い水の底に沈んでいくのは誰?水の底に沈んだ人物が「ここはどこなの?」と問うと画面に「わからない」の文字が出るが、もしやこれは会話なのか?コントローラーの人物が「水の底に沈む」選択を「させられた」場面なのでは?
このあと、同じスーツ姿の人物による語りがつづくが、もしやこれも会話なのではないか?胸に光が宿っている=命がある=コントローラーの人物と、やや青い色の画面に出てくる同じスーツを着たゲームキャラクター(胸の光が確認できない)とによる会話なのでは?「私はゲームの住人ですか?」と呼び掛ける青白い人物の声と、命の水が枯れて苦しんでいるコントローラーの人物の映像とが重なることで、話している人物をミスリードされているのでは?青白い人物の映像は言葉とクチの動きが合っているが、胸に光がある人物のクチは「動いていない」。
胸に光のある人物の光が上方に飛び去るのは「死」のイメージ(最後はガラスが割れて何かが砕けたことを示唆する)。プレイヤー=神様=コントローラーの人物に対して、ゲームキャラクターが憤りをぶつけながら、最後にその命を奪ったという場面なのでは?第1部では「息をする やめる」の文字で暗示をかけたようなものをさらに強化して、今度は本当に息の根を止めたのでは?
●天と地のレクイエム
ゲームキャラクターの心象風景か。文字通りの鎮魂。先ほど上方に飛び去ったコントローラーの人物の「命の光」を見立てたランタンが上方に輝く。
●インターバル(暗闇のなかを歩く)
暗闇のなかを進む誰か。コントローラーの人物はすでに息絶えたとすれば、これは青白いゲームキャラクターのほうか。「選択することも できない」「どこにも進めない」のはコントローラーの人物がすでに息絶えたからか。ゆえに選ぶものも選択肢もない。ただ、コントローラーの人物に何も操作されない状況は、ゲームキャラクターにとって「自由」を与えられたと言えるのでは?「暗すぎて神様からも観測されない」はプレイが行なわれていないから、プレイヤー=神様=観衆からも見られないということでは?やがてゲームキャラクターは「生きている 感じられる」とプレイヤーの支配から逃れたことで自分自身の生を実感する。そして「神様が導く方へ」「水が照らす方へ」進んでいく。
●あの夏へ
水の通路を示す線が上方に伸びている。「千と千尋の神隠し」で千尋が川を越えることで異世界に踏み込むように、このゲームキャラクターもこの水の流れによって水の底の暗闇から抜け出していくということか。「三途の川」を逆に渡るといったイメージ。第1部のサンズとの言葉の重なりは偶然だろうが、青い光がクロスしている演出はMegalovaniaの衣装を想起させるので、あながち偶然ではないかもしれない。最後に「はっ」と声を出して飛び越えたのは、何らかの境界=壁を越えたサインではないのか?
●インターバル(祈る)
水の球に包まれた人物が上方へとのぼり、星になり、雲のなかに溶ける。コントローラーの人物がいた部屋に映像が戻り、コントローラーの前にいる人物は雨に打たれている。「水の球に包まれた人物が、雨とともにこの身体に落ちた」あるいは「雨を頼りにこの身体の場所を見つけ、水の球に包まれた人物が暗闇からのぼってきた」のでは?
コントローラーの前にいる人物は目を開ける。「祈る」「祈り続ける」「希望を」「夢を」などの言葉たち。人物はコントローラーを握って「祈る」を選択し、ゲーム機の前から立ち去る。おかしい、セーブデータは消えたのだから、このゲームをまだクリアしていないはずなのに。何故プレイをつづけないのか。この人物は本当に最初からいたコントローラーの人物?水の球でやってきた人物=ゲームキャラクターによって乗っ取られているのではないか?
やがてコントローラーの前にいた人物と思しき者は格子状の囲いのなかにおり、ロード画面と同じような舞を演じる。上方から差す光。一片の羽根を拾い上げると周囲の格子状の幕は消え去り、美しい世界に至る。「守りたい」「希望の」「夢の」「命の 続きを」と表示される。
●春よ、来い
格子状の囲いから逃れた=ゲームの世界から現実に抜け出た、という示唆ではないのか。春よ、来いを演じるのは「かつてゲームキャラクターであった、今は現実世界に生きる何者か」だとしたら…?リンクに咲いた花がスタンドにも広がるのは「もうこのリンク上の出来事はゲームのなかのことではないのですよ」という意味なのでは…?
人物はせり上がりのステージにのぼり、「祈り続ける」「いつか終わるとしても」「夢のつづきを大切にする」と語るが、これは「いつか終わる夢」と同じ情景を指すのではないか。それはつまり、ここにいる人物は「何らかの方法によって仮初めの実体を得た何者か」であるという……。そして、この命がつづくことと、いつかそれが終わったとしても、またどこかに命が巡ることができるようにと祈っているのだとしたら…。
やがて先ほどのゲーム機では「RE_PLAY」のコマンドが「RE_PRAY」へと置き換わった。この人物の祈りによってコマンドが変化したのではないか。もしかして、このゲームはもう「PLAY」することはできないのではないか?何を押してもただ「祈る」「祈り続ける」だけで、もうこのゲームに誰かが干渉することはできなくなったのではないか……。「PLAYERによるLOAD」はできず、ただ「LORDに祈るPRAYER」となって……。だとしたら、このゲームのキャラクターはすべてのプレイヤーから完全に逃れることが、できたはずだ……。
●エンディング
ここで描かれるのは第1部(過去編)の演目たち。光の球の演出は「エストポリス伝記II」からのオマージュ。戦いのなかで命を落とした戦士たちの魂が、生き残った者たちを見守っているという意味。第1部の演目たちはプレイヤー(神)と戦い、「壁」を壊した英雄たち。トロッコ問題の選択によらず登場する「いつか終わる夢-original-」(魂となって見守る)、「鶏と蛇と豚」(魂となって見守る)、「Megalovania」(魂となって見守る)、「破滅への使者」(神殺しを成し遂げ死なず?あるいは魂すらも消滅?)、そして生を得る第2部での「いつか終わる夢;RE」によって英霊たちが天に送られる。いつかこの世界に戻って来いという「祈り」とともに。=FIN=
……という読み方はどうでしょうか。深読みが過ぎるかもしれませんが、改めて「RE_PRAY」を見たくなるくらいには、それっぽいのではないでしょうか。あくまで「諸説」なので真に受けられてはいけませんし、これこそ本当の的外れだったりするかもしれませんが、自分では割と気に入っています。「キャラクターに支配されていませんか?」というヒントが、ちゃんとヒントとして機能しているあたりも破綻なくおさまった諸説かなと思います。
もしこれが的外れの誤解であれば僕は深読みの天才だなと思いますし、逆に何かしら意図したものと近いのであれば、空恐ろしく思います。この、とある人物の人生に重なるようでいて、前向きな人生賛歌のように見える公演の背後に、辛辣なダークファンタジーが潜んでいるような物語を、本当にひとりで自ら作ったのかと震えます。これだけの温かいベールに包まれていながら、その実は観衆の急所を突き刺そうとする試み、どんな仕掛け人かと。天は何物を与えようというのか。
この解釈までに都合20回ほど「RE_PRAY」を見ましたが、見れば見るほど凄まじい完成度に震えました。とある解釈に基づいて演目を見たときに「ちゃんとそれらしい布石が打ってある」という濃密さ。ぜひ皆さまも一度・二度ならず何度でも見返していかれるとよいのではないかと思いました。まだまだいろんな謎を発見できるかもしれませんからね!
ようやく自分のなかで自分なりの理解ができたような気持ちになりました!
今回のフモさんの深読みが1番腑に落ちました。