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僕らはまた花を植えるよ、きっと!

昨日はCS放送で羽生結弦氏出演のアイスショー「ファンタジー・オン・アイス2024」の愛知公演最終日の生中継を見ておりました。個人的な多忙な状況もあり現地に赴くことはできませんでしたが、そのぶん大画面でじっくりとその瞬間を感じることができました。

羽生氏はツアー後半への出演はないということで今年のファンタジー・オン・アイスへの出演はこれで最後。そして、羽生氏と西川貴教さんのコラボによる演目「Meteor -ミーティア-」も一旦はこれで終演となります。また再演の可能性もなくはないのでしょうが、コラボが前提の演目であることも含めると、これで見納めであっても何の不思議もありません。大変お名残惜しい時間でした。

↓いつかまた「Meteor -ミーティア-」と会えることを祈っています!





そんななか、愛知公演の「Meteor -ミーティア-」を見ておりましたところ、演技終わりの部分の動きが幕張公演とは異なっているようでした。日々さまざまな箇所にアップデートは加わっているでしょうし、スポーツである以上は日によって出来栄えの違いやコンディション由来の微調整もあることでしょうが、この演技終わりの変化はどうも意図的な振り付けの変更のようでした。幕張公演では手の平をズバッとリンクに突いて決めポーズで終わるような感じだったものが、愛知公演では手の平を上に向けたまま大切な何かをそっと地面に置くかのような動きがあったうえで、改めてリンクに手を突くような終わりに変わっていたのです。何か思いが込められているのであればぜひ感じたい。自分なりに考えていこうと思います。

まず前段として、幕張公演以降「この演目では劇中のどの場面を想起しているのか」ということを考えていました。「Meteor -ミーティア-」は「機動戦士ガンダムSEED」シリーズのなかでたびたび使われてきた楽曲であり、羽生氏も多分に「ガンダムSEED」シリーズの世界観を踏まえて演目を構成しているだろうことを考えると、この演目とリンクする劇中の場面がいくつかあるだろうと思われましたので、それがどのあたりなのかを考えていたわけです。

それらしき場面はいくつか思い浮かびました。まず冒頭部分、暗闇のなかで演技が始まることからしてここはフリーダムガンダム起動の場面です。この作品世界では、通電することで通常兵器に対して完封に近い防御力を備える特殊な装甲があり、その装甲が「通電時に発色する」特性を持つことから、起動前はグレーだった機体が起動時に青くなったり赤くなったり白くなったりします。色のない機体に色がついたら戦闘準備完了の証であり、そこから動き出すというのはまさに戦場へと出発する場面になるわけです。「ジャキーン」という感じの直線的な動きは、肩のバーニアや脚部のスラスターなどを作動させる表現でしょう。その後、多くの場面は戦いを描いたもので、頻繁に見られる両手の指を広げるポーズは、フリーダムの翼に格納されたビーム砲を一斉に発射する場面でしょう。つまり、この演目では主に戦闘の場面を描いています。まぁ言わずもがなの話ではありますが。

さて、戦闘以外の場面でまず気になるのは、1番から2番の間奏で手の平に乗せた何かを右肩に乗せる動きでしょう。これは「ガンダムSEED」シリーズ全体の主人公格であるキラ・ヤマトが親友アスラン・ザラにもらった鳥型のロボット「トリィ」を肩に乗せる場面を思わせます。肩に乗せた直後に顔を覆って苦悩するような素振りを見せるのは、このトリィが少年の頃に交わした友情の証であると同時に、敵対する勢力に分かれて戦い合う関係になったふたりの「戻らない過去」を象徴する存在でもあるからでしょうか。

劇中でも、第1シリーズ「ガンダムSEED」第28話「キラ」でキラとアスランが偶然の再会を果たした際にトリィがふたりを引き合わせるのですが、その状況が「アスランが味方とともに別勢力に潜入している」ところだったものですから、アスランはキラが見知らぬ人であるかのように振る舞い(※知り合いだとバレると非常に面倒)、キラもそれを察して「(この鳥は)昔、大事な友だちにもらった、大事なものなんだ」と言葉を掛けるに留まりました。その後、ふたりは互いの仲間の命を奪い合い、ついにはアスランがキラに自爆攻撃をお見舞いするまでに決定的な亀裂が入っていくわけですが(※のちに解消したりしなかったり)、そういう意味では「戦いのなかで起こる友との別れ」を示すような場面なのかなと思います。

↓キラたちが乗っている宇宙戦艦を探して残滅するための行動中にキラと会っちゃった、という気まずい場面です!


そして間奏後の「注ぐ生命 刻む羽根で」からのリンクに倒れ込んで悶える演技のくだり。キラとフリーダムが経験した悶えるほどの大きな喪失と言えば、「ガンダムSEED」最終局面でのフレイ・アルスターの死の場面が浮かびます。フレイはまだ平和だった時代にキラが通っていた学校の後輩でマドンナ的な存在(お嬢様)でしたが、父親をザフト軍(当初アスランが所属していた勢力)によって殺されると、その主たる構成者である遺伝子操作された特殊な人類「コーディネイター」への憎悪を決定的に募らせ、やがて「コーディネイターであるキラをけしかけて、コーディネイターを殺させる」復讐劇へと自身を走らせます。キラに「私の想いがあなたを守るから」と寄り添う姿勢を示しつつ、唇と身体を重ねることでキラを望まぬ戦いへと向かわせることに成功したフレイ。しかし、憎悪からキラを利用している罪の意識と、実は少しずつキラ自身に惹かれていく本心との板挟みで情緒は不安定になっていきます。

とある出来事(※キラから同情あるいは憐れみをかけられたと感じた)をキッカケにキラとの関係にも亀裂が入ると、やがてフレイはザフト軍に拉致されて捕虜となり、ザフト軍では第1シリーズのラスボス格にあたるラウ・ル・クルーゼの付き人とさせられ、人類自体の滅びを望むクルーゼによって「技術的に封印されていた核兵器を再び使用可能にする技術」を各勢力に拡散させるための運び屋とされたのち(ここでザフトを離れる)、自らの意志もあって最前線に留まることになります(※それが贖罪になると考えた)。最終局面では、乗っていた船が戦闘不能となったことから脱出艇で宇宙空間を漂っていると、キラとクルーゼの戦闘に遭遇。キラを倒す隙を作るためか、あるいは精神的な攻撃を加えるためか「フレイの乗った脱出艇を攻撃する」というクルーゼの策によって脱出艇は攻撃を受けます。一旦はキラがシールドを射出してフレイを守るも(※倒れ込んで手を伸ばす動き)、直後にクルーゼの再攻撃によってフレイの脱出艇は撃墜され、キラの目の前でフレイは死ぬのです(※リンク上で悶える動き)。

フレイの魂はキラに対する贖罪と「本当の私の想いがあなたを守るから…」という言葉を遺して消えていきます。もっと早い時期に本心からの会話があれば、このような悲劇的な結末を迎えなかっただろうふたりですが、些細な行き違いから心が結ばれる前に死別しました。キラは初恋の人であろうフレイの死によって覚醒状態になり、クルーゼとの最後の戦いに臨みます。人間は決して争いを止めることなどなく自らの手で滅びるのだと説くクルーゼに対して、「それでも…それでも…守りたい世界があるんだ!」と言い返すキラは、最後は手にしたビームサーベルでクルーゼが乗るプロヴィデンスガンダムを貫き、この戦いに勝利します。クルーゼとの戦いの模様も、「光はまた 空に堕ちる 望むだけの 熱を捧げて」のあたりで両手を突き出す動きが決着の突きだったりするのかななどと思うわけです。

↓戦うのは嫌だし、戦うことをいいとも思わないけれど、それでも守りたい世界がある!




劇中場面との連想で言うと、第1シリーズ「ガンダムSEED」の最終局面をベースに戦いが生み出す悲劇を表現しつつ、劇中での象徴的な場面として28話「キラ」を念頭に置いて構成した演目だったりするのかなと感じました。トリィを肩に乗せてアスランと別れる場面も、フレイとの関係に亀裂が入る場面も、いずれもその28話「キラ」での出来事ですので。そして、その背景にある構造を考えると、アスランはキラに対して「お前もコーディネイターなのに何故俺たちの仲間にならないんだ」と思っており、フレイはキラに対して「あなたはナチュラルである自分とは違うコーディネイター、父を殺したコーディネイターが憎い」と思っており、同じ人間のはずなのに「生まれ」のせいで友だちや恋人でいつづけられないという悲しさや愚かさがあります。そのいずれの場面もキラの肩の上で機械であるトリィが見つめているというのもまた示唆的な場面だなと感じます。もし機械に心があれば、「どちらも大した違いでもないのに、違うだの同じだのと…」と思ったことでしょうから。

という解釈のなかで、愛知公演での「Meteor -ミーティア-」を見ますと、最後に振り付けが変更になったと思われる箇所では右手で何かを大切そうに持っていますが、この右手の動きは間奏でトリィを肩に乗せたと思しき場面と、リンクに倒れて悶えた場面と共通する動きです。そこで手にしていたものは友への想いであり、初恋の人への想いだろうと思います。愚かな戦いの果てでも、そうした想いを失わずに大切にしていくこと、そんな情景が思い浮かぶ終幕です。ズバッと勢いよく終わった場合は「勝った!」感が強調されやすくなるかなと思いますが、戦いのなかで掬い取り、戦いのあとに大切にしているものを最後にゆっくりと示すことで「想い」の部分がより強調されるような気がしました。ガンダムシリーズ自体もそうですが、この演目も「敵に勝ったぞ」という単純な善悪の対立みたいな話ではない、互いの正義が生み出す人間の争いを見つめるものだろうと思いますので。

その大切なものをリンクに置いたのち手の平を返して改めてリンクに手を突く場面は、こちらは深読みが過ぎるかもしれませんが、想いをリンク(=大地)に埋めるような動きに見えました。まるで花でも植えるかのようにして。キラやアスランは、もうひとりの主人公格であるシン・アスカを迎えた第2シリーズ「ガンダムSEED DESTINY」でも活躍していくのですが、物語の序盤にシンとキラがとある慰霊碑の前で偶然(互いが誰とは知らずに)出会ったときに、シンはキラに「いくら綺麗に花が咲いても、人はまた吹き飛ばす…」という言葉を掛けています。先の大戦で家族を失ったシンが、今また始まろうとしている戦いを憂い、絶望しながら述べた言葉です。その後、物語のなかでは終始敵対する関係にあったシンとキラは「ガンダムSEED DESTINY」での長い戦いを終えたあと再び同じ慰霊碑のもとで出会います。そこでようやく互いがガンダムのパイロットであることを認識するのですが、戸惑うシンに対してキラは握手を求めながら「いくら吹き飛ばされても、僕らはまた、花を植えるよ。きっと」と、いつか言われた言葉へのアンサーを返します。それは、何度絶望しても、打ちのめされても、「戦いを止めるという戦い」を止めない、そういうことなのでしょう。

もし、この「Meteor -ミーティア-」という演目での最後の振り付けが、戦いのなかでも大切な想いを失わず、その想いの花を植えつづけることを示しているのだとしたら、「ガンダムSEED」という作品群を汲み取りつつ、自分の表現として昇華させた美しい終え方だなと思います。ロボットアニメという作品の性質上、戦闘シーンが多く描かれる作品ではありますが、本当に物語が目指すゴールは「戦いを止める」ことなのですから。その想いをグッと凝縮して、仮に「ガンダムSEED」を知らなくても通底する想いが伝わるような新たな自分自身の表現として見せたこと、改めて感嘆させられます。ガンダムSEEDだと思ってみればそう見えるし、ガンダムSEEDを知らなくても思うところは伝わってくる、その絶妙な重なり方が。これが全部で6回しか演じない演目になるだなんて、本当にもったいない限り。いつか羽生氏自身の公演で何らかの形で活かしてもらえたらいいのになと思います。「自分が好きなガンダムSEEDなどの作品から受けた影響をひとつのストーリーにして演じてみようと思った…」的な機会など設けていただきまして。実際やるかどうかはさておき、ストーリーにできるぐらいの想いが胸の内にあるのではないか、そう感じる作り込みでしたので!

↓キラが誰かと向き合うとき、そこにはいつもトリィがいる…!


「ガンダムSEED」の終わりも、トリィが宇宙を漂うキラを見つけて、アスランを連れてきてくれましたしね!

トリィいなかったらたぶん見つかってないですからね!



生歌でないと演じられない、ということもないだろうと思っています!