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「人間性」を第一に競技に取り組んでいきましょう!

具体的な事例については言及しませんが、またひとつ不祥事によって人生の大切な機会を逸する事例が生まれました。あふれる才能と多大な努力のもと、素晴らしい結果を残し、大きな期待を背負っていた「今まさにこれから」というときの出来事でしたので、大変残念に思います。外野の者としては、本人の意向と競技団体の方針を受け入れるしかありませんが、本当に残念で、もっと早い段階でどうにかならなかったものかと惜しまれます。どうにかできただろうと悔やまれます。

今すぐ前を向くのは難しいことかもしれませんが、過去にこうした出来事を乗り越えてきた稀有なるケース…たとえばバドミントンの桃田賢斗さんのように、その後の努力と前進で世界の人々から尊敬を集めるチャンピオンになったようなことを、自ら振り返ったときに「今の自分がいい」と受け止められるような人生を、これから手にしてもらえたらいいなと思います。せめて、そうすることでこの出来事を含めた人生を大切にできるようになってもらえたらと思います。





この事例そのものというよりは一般論としての話になりますが、昨今の世のなかの「私刑」は目に余るものがあると感じます。僕の考える生命や人生や権利といったものは、基本的に「個々の自由な意志」に委ねられるものであり、その自由な意志が互いにぶつかり合うときに限って、慎重にそれを制限していくべきだと思っています。そのために存在するのが、憲法や法律なのであろうと思います。だから、どうやって定めるかの規定から社会全体で合意をして「みんな」で「慎重」に決めた憲法や法律を超えて「私刑」を振るうようなことは厳に慎むべきだろうと。

しかし今は、社会全体が慎重に定めた合意を超えた「私刑」を求める声、自分が思う罰が下るまで納得せずに騒ぐ声、正義を行使すること自体が目的で相手がどうなろうと知ったことではないような声が大きくなり過ぎているように感じます。特に毒々しいSNSでは「悪・即・キャンセル」でゼロか100かの極端な暴風が吹き荒れており、してしまったこととそれによって起きる出来事とが「釣り合わない」と感じることが多々あります。

もちろん、「法律を犯した」「内規を破った」ということを無条件に赦せとか、無視して構わないと言っているわけではありません。ただ、本当に守るべきは金科玉条ではなく、その条文によって実現しようとした理想の社会のほうです。たとえば20歳未満の者の飲酒や喫煙を禁ずる法律で言えば、その条文が本当に守ろうとしているのは「子どもたちの健康」であり「健やかな成長」だろうと思います。

刑法の「二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律」や「二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律」が定めるのは、20歳未満の者の飲酒喫煙を禁止するということだけで、罰則はありません。実際の品物や嗜むために必要な器具を没収するとの定めがあるだけで、むしろ罰則があるのはお酒やたばこを売った側や、20歳未満の者を管理監督する側です。この条文を見るに、これは「子どもたちをちゃんと見守りなさいよ」という法律だと感じるわけです。決して、この条文によって子どもたちの未来を閉ざそうとするものではないと。

ならばこれは法律に則った「没収」ののち、本人および周囲の管理監督者への競技団体による厳しい指導のもと、本人による「説明・謝罪」を行なったうえで、本来あるべき社会生活のなかで反省し、心と行動を改めていくように社会が「子どもたちを見守っていく」事案だろうと僕は思うわけです。法は酒・たばこそのもの以上に何かを奪うことは求めていないのですから。18歳・19歳ともなれば子どもではないという意見もあるかもしれませんが、少なくとも社会は20歳までは飲酒喫煙に関する慎重な見守り対象としているわけですから、何らかのことを起こしたあとも社会が引きつづき見守っていくべきであろうと。

こう言うと「喫煙で推薦が取り消された」とか「飲酒で退学になった」とか厳しい事例を挙げての反論が出てくるわけですが、それは社会全体でゼロか100かの「悪・即・キャンセル」をやっているわけではなく、「程度によるケースバイケース」のなかの出来事でしょう。「推薦」という際立ってポジティブな優遇を与えることは難しいかもしれませんが、進学自体が否定されるわけではなく、受験によって合格を勝ち取ればいいのです。何度言っても聞かなければ「手におえん」と学校側から更生を断念することはあるかもしれませんが、すべての事例で「退学」といった厳しい処分が妥当だとは僕は思いません。

本人の反省や立ち直りを促すのに適切な塩梅…「厳重注意」とか「けん責」とか「罰金」とか「減給」とか「降格」とか「停学」とか「謹慎」とかゼロと100の間の選択肢はいろいろあるわけでしょう。当該事案に関しても「永久追放」「登録抹消」「資格停止」のような重いものだけでなく「戒告」「その他、必要に応じた処分」のような選択肢だってあるわけです。ゼロにしろとは言わないが、100にしろとも思わない、10かな20かな30かなという中間があってしかるべきです。もし裁判官があらゆる裁判で「すまんのぉ、有罪の場合、罰則はギロチンしかないんじゃ」と言い出すゼロか100かしかない社会があったらイヤじゃないですか。しかし今は、あらかじめ法律でよき塩梅に定めているものまで一般の人がSNSを通じて「ギロチンだな」「最低でもギロチン」「ギロチンで英断を」と100の圧力を掛けて、社会がそれに影響されてしまっているような傾向を感じるのです。

大学入学祝いで20歳未満なのにお酒を飲んでしまったキミ。

法律違反なので入学取り消しです。

デート中に自転車で横並びに並進してしまったあなた。

法律違反なのでまとめて退学です。

みだりにその辺でゴミを捨ててしまった貴方。

法律違反なので解雇です。

そんな社会のほうがよかったでしょうか。

平然と法を飛び越えてギロチンが落ちて来る社会が。

僕は20歳未満でもありませんし、自転車で一緒に出掛ける友だちもおりませんし、ゴミは捨てませんので、「おうそいつらはギロチンにかけちまえ」「そのほうがメシウマで面白い」「他人の不幸は蜜の味〜」と思わなくもありませんが、本当にそこまで望む社会がいいですかと。法を超えてエクストラの私刑が飛び交う社会がお望みですかと。SNSでギロチンを落とせと叫び、落ちたら落ちたで「俺が落としたわけじゃない、自分たちで勝手にギロチン刑を選んだだけ」と門外漢を決め込む極端な声が社会全体の真意なのですかと。面倒事をキャンセルしてしまえばSNSで騒ぐ輩もいなくなってあと腐れなく気楽でしょうが、本人とともに周囲の人々が踏みとどまって、再び立ち直っていけるように寄り添うほうが僕はいいのではないかと思います。法も、社会も、そこまでの厳しさは求めていないはずです。

↓「罰」と「赦し」と「説明」と「天運」があれば、もっと大きな出来事からだって復帰できていいはずです!



とは言え、そうしたSNS上の声もすべて無視していいとは思いません。社会全体のなかでどの程度の大きさであるかは不明瞭ですが、確かにそういう「民意」はあるのでしょう。悪・即・キャンセルを望む声、他人に極めて高潔な清廉性を求める声は確かにあります(←自分のことを棚に上げられる人に多い)。そして、傾向としてはじょじょにそうした声が高まってきているように感じます。

個人的には「酒飲みながらベンチに入って、二日酔いでホームラン」みたいなヒーローも嫌いではないのですが、現代社会のヒーロー像は、技能が高いことはもちろん、清廉で、人間的にも尊敬でき、社会の手本となるような人物なのだろうと思いますし、すべての人はそういうものを目指すほうがいいだろうと思います。

SNSを通じて個人が世界とつながった今、好評も悪評も一瞬で世界に広まり、一瞬で自分に跳ね返ってきます。それは味方につければ大きなチカラになりますが、敵にまわせばとても耐え切れない暴風となるものです。自分に成すべきことがある場合、追い風が吹くぶんには結構ですが、向かい風が吹き荒れたらそれに抵抗するだけで手一杯になります。本来成すべき仕事や、そのための努力ができなくなります。そんな状態では、なかなかいい結果も望めないでしょう。応援や非難で足が速くなったり遅くなったり点が取れたり取れなかったりはしませんが、非難の暴風を浴びれば仕事に向かうまでの準備や支援や機会が大きく損なわれることは確かなわけですから。

ですので、何にも先立って「人間性」、人間性が第一です。

先立つ人間性があれば、成長の過程においてもたくさんの支援や機会が与えられるでしょう。この人のためならば、と損得を超えたサポートが得られるでしょう。体力面や技術面に関するアップデートが突き詰められていくなかで、最後に勝負をわけるのは「どれだけ強い味方を得られるかどうか」です。自分ひとりでは成し遂げられない大きな仕事に挑むときに、どれだけ優秀な人が助けてくれるか、損得を超えて助けてくれるか、それを最後に決めるのは「人間性」です。自分の限界を超え、理想を追求する段階まで進んだとき、その先に行けるかどうかは「人間性」が決めるのです。持ち前の体力・技術だけでそこそこいいところまで行けた人ならなおのこと、そこに「人間性」が伴えばもっと大きな成功が得られたのにと思います。

これからのスターは「人間性」も素晴らしい人ばかりでしょう。

自分の人生に暴風を起こさず、たくさんの助けを得られる人でなければ、もはや頂点は望めないのです。

自分の才能と努力だけでてっぺん取れるほど甘くはない現代情報社会なのです。

なので、結果としてトップに立つ人ほど人間性も伴っている、そういう傾向が強まるのではないかと思うのです。

自分自身のためにも、「人間性」を大事に、人生に挑んでいきましょう!

↓まぁ、ほかの方法として「爆速で警察沙汰にして不起訴に持ち込み、司法で世間を黙らせる」って手もありますが!

やったやらないの部分は変わってないのに、不起訴だと急に「赦された」感が出る不思議!

これなら清廉性なんかクソ喰らえで「不起訴で黙らせる」ほうがいい気がしますよね!

個人間の揉め事で立件・有罪までいける証拠なんてそうそう出ないですからね!

謝ったら正義の暴風が吹き荒れるから負け、完全否定なら司法での妥当な決着に持ち込めるから得、そんな現代社会です!



僕なら公明正大な第三者のスポーツ仲裁裁判所に判断を委ねますけどね!