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これが「柔道」だ!

パリ五輪競技2日目は、日本にとって衝撃的な敗戦がありました。柔道女子52キロ級の絶対的な女王、阿部詩さんが2回戦で一本負けを喫したのです。2回戦での敗戦は敗者復活戦に進むことも叶わず、この時点で詩さんの52キロ級でのメダルはなくなりました。兄・一二三さんとの兄妹連覇ももちろんありません。

何が起きたのかと呆然とする詩さんが、やがて自分に起きた出来事を理解していくときの表情の変化、文字通りの「号泣」…「咆哮」と言ってもいいような涙は見ているコチラの胸も痛くなるものでした。せめてもの不幸中の幸いは、今回の開催地が柔道大国フランスのパリであったことでしょうか。会場の大観衆は今自分たちが見ているものの意味を理解し、大きなUTAコールで支えてくれました。せめてものチカラになればと思います。

↓こんなことが起きるのか、これが五輪の魔物なのか!



詩さんが弱かったとは微塵も思いません。敗れた試合も2回戦とは言え、世界ランク1位のケルディヨロワさんを相手に試合を支配していました。試合中、ケルディヨロワさんは執拗に詩さんの脇腹あたりをつかもうとしてきました。距離を詰めて空間を埋めることで、詩さん得意の袖釣り込み腰などの投げ技を防ぐ狙いでしょうか。それでも投げてしまうのが詩さんの強さであり、相手は守勢に徹するなかで早々に指導2つをもらっていました。杓子定規に判定すれば残り2分20秒ほどで放った背負い投げも偽装攻撃(かけ逃げ)で指導を与えていいくらいに守勢にまわっていました。

残り1分48秒では内股で技ありを取り、優勢に立ちます。その後、懸命に攻勢に出るケルディヨロワさんの攻めをさばきながら、寝技に持ち込んで時間を消化するなど、試合運びにも何の不安もありませんでした。相手が対策してくることも、五輪という舞台で思わぬ仕掛けをしてくることも、十分に承知したうえでの戦いでした。

それでも「魔」はさしてしまいます。残り1分2秒、ケルディヨロワさんは左手で詩さんの左袖をつかむとグッと手元に引き寄せ、自由な右手で詩さんの脇腹のあたりをつかみます。詩さんが腰を屈めて抵抗すると、ケルディヨロワさんは左手を放して、詩さんの背中側の帯をつかみます。そしてケルディヨロワさんは、半身になった詩さんの前の足を掛けにいきます。詩さんは大内刈りあるいは内股で対抗しようとしますが態勢が悪すぎました。捨て身で仕掛けたケルディヨロワさんの「谷落とし」でまさかの一本負け。

どうすればよかったのかはわかりません。あの体勢になってしまったらそうそう逃げられないように思います。なってしまう前に相手の狙いを潰すのか、なってしまう前に勝ってしまうのか、世界で何十・何百と勝ち星を重ねるには相手の捨て身技をそもそも許さないということが必要なのでしょう。かつて谷亮子さんも相手の思わぬ朽木倒し(※いわゆる片足タックル/現在は禁止技)で敗れたことがありましたが、捨て身の攻撃を受ければ当たることはあります。そういう意味ではあえて敗因を考えるなら「負ける前に勝てなかった」ことでしょうか。

今大会に向かうにあたり、詩さんは完璧な過程ではありませんでした。東京五輪後には長年苦しんできた両肩の関節唇を修復する手術を受け、休養もありました。2022年の全日本体重別選抜には代表入りの要件を満たすため強行出場しますが、結果として大会途中での棄権となりました。その後、2023年の世界選手権は制するも、昨年10月には今度は腰を痛めたと言います。それでも3月のグランドスラム・アンタルヤではオール一本勝ちで優勝していたように、力量としては何の不安もありませんでした。ただ、過程が不十分であったことで相手選手の捨て身や奇策を受ける機会を十分に得られませんでした。十分な過程を踏んでいれば、「何とかして勝たねばならぬ」相手の必死をもっと受け止める機会があったでしょう。あるいはそれを喰らってしまうこともあったかもしれません。しかし、喰らう機会自体が乏しかったことで「いつも金を持っていくウタ・アベをどうにかして倒さねばならぬ」のアイディアが温存されたままパリまで来てしまった。

そして、十分な過程を踏めなかったことは本来あるべきランキングを得られないことにつながり、この日の競技の第1試合から出場することになったり、2回戦で世界ランク1位の選手と当たることになったりと、ラクではない道のりを強いられました。同じ対戦相手であっても、五輪のなかで試合を重ねてからの対戦であったなら、あと何度か懸命な相手の必死を受け止めてからであったなら、詩さんの何かが「目覚めて」いたのではないかと思います。そして、相手の必死が届く前に相手を畳に沈めていたのではないかと。特に、敗れたケルディヨロワさんが最終的にこの階級の金を取ったことから振り返ると、そう思います。これが五輪、これが人生を懸ける舞台ということかもしれませんが、起きては困ることが起きるのが五輪なんですね…。



それでも詩さんはひとりではありません。スタンドにはご両親とお兄さんが来ており、準々決勝後のインターバルではご家族とおにぎりか何かを食べる姿が見られました。ご飯が食べられているなら大丈夫、日本にそんな安堵が広がりました。そしてこの日の戦いには、兄・一二三さんが登場してきます。自分と似た身体、似た環境、似た境遇、似た心を備えたお兄さんの歩みは、敗れた詩さんにとっても励みや支えになるものでしょう。これまでもそうだったように、兄にできるなら私にも、と。

一二三さんは強かった。2回戦は得意の背負い投げ、袖釣り込み腰で合わせ技一本。準々決勝は2度の鼻血出血治療による中断があり、ルール上はあと一度「同じ箇所からの出血」があれば一二三さんの負けになるという理不尽なピンチに陥りますが、こちらも袖釣り込み腰と大内刈りの合わせ技一本で突破。準決勝は相手の守勢になかなか技が決まりませんが、ゴールデンスコアの延長戦に突入した直後、「とにかくポイントをあげれば勝てる」と希望を持った相手が攻勢に出たところを捕らえ、袖釣り込み腰の仕掛けから「体重を後傾して耐える」相手に仕掛ける大外刈りの連続技を発動。最後の決めまでしっかり行ない、見事に技ありを奪いました。

↓こんなんで負けたらシャレにならない、最大の難敵・鼻血!


だったら、開幕早々鼻にパンチ入れたほうがいいかもしれない!

どうせ勝てない相手なら!



そして迎えた決勝。白の柔道着に身を包んだ一二三さんは日本の思い描く「柔道」そのものでした。「三四郎」すら「一二三」を見て作ったオマージュキャラクターじゃないかと思うくらいに。対戦相手はブラジルのリマさん。阿部さんの投げを警戒し、低い態勢を取ってまともに組むことすらしてこない相手を前にしても、一二三さんの「柔道」は変わりません。組んで、投げる。それが柔道です。

残り2分18秒、相手が投げを警戒して後傾と見た一二三さんは小外刈りを飛ばして相手を倒します。勢い十分、背中もついたように見えましたが、判定は技あり。一二三さんも一本ではないことにやや怪訝な表情も見せました。見ている者の頭に浮かぶのは先ほどの詩さんの試合。技ありでリードしたあとの残り時間、相手の必死に刺されたあの試合です。守るべきか、逃げるべきか、そんな考えも観衆目線では浮かびます。

しかし、一二三さんは動じもしません。一本でないならば一本を取るだけです。先にポイントを奪ったこと、そして足技を見せたことで相手も前に出てくるしかありません。解説席にいる「日本柔道」を体現する男のひとり・大野将平さんは「相手が前に出てくれば投げやすくなる」と投げる気マンマンです。「チャンス」という声色をしています。これが柔道家の心か。

そして迎えた残り1分26秒。まともに組まない相手を前に、唯一まともにつかめる両袖を持って、一二三さんは袖釣り込み腰を放ちます。横にまわり込んで逃げようとする相手を足でせきとめ、投げの方向をさらに回転させて、まるで円盤投げのように相手を振り回すと見事に決まって技あり!合わせて一本!

↓どれだけ逃げようとも逃がさない!美しく投げて勝つ「柔道」を示した!


スタンドで見守る詩さんは涙を流しながら拍手をしています。大観衆は偉大な王者の連覇に万雷の拍手を贈っています。ただ、一二三さんは静かに、厳かに、喜びを噛み締めています。対戦相手と握手をかわし、畳を降りる際には正座して深々と礼をしました。美しく投げて勝つこと。礼に始まり、礼に終わること。ともすれば世界のJUDOが忘れてしまいがちな、あるいは無用とすら思っていそうな柔道精神を眩しいほどに発揮しました。

これが柔道です。

これが柔道家です。

競技を発展させるのは素晴らしい選手だけです。理想を体現し、みんなの夢を叶える選手だけです。お金が稼げればいいわけではありません。ただ勝てばいいわけではありません。誰かが勝ち残るまでやれば、そりゃ誰かが勝つでしょう。でも、勝っただけでは「憧れ」は生みません。「憧れ」がなければ競技は発展しません。「憧れ」を生むのはその競技の理想を体現し、みんなの夢を叶えるスターたちだけです。一二三さんは間違いなくそういう存在でしたし、前夜は荒れ狂った世界の柔道界に「これが柔道だ」という姿を示し統治してくれた、そう思います。胸のすくような勝利でした!



試合後、一二三さんは苦しかった胸の内を語りました。東京五輪で勝ったあと「この三年、すごい苦しい思い、しんどい思いばかりで、ラクな道ではなかった」と。そしてこの日起きてしまった出来事について「妹のぶんまで、やっぱり兄が頑張らないとと思って頑張りました」「兄としてやるしかないという思い」だったと語りました。そこには期待を背負う者だけが知る苦しみが滲んでいたと思います。

連覇への期待、勝って当然と思われる重圧、王者として求められる役割、人間性も含めて問われる日々の暮らし、そのなかで世界中のライバルが自分を標的にしてくるという難しさ、そして「兄」として妹を思う気持ち…。一度目の勝利より二度目の勝利は遥かに難しかったことでしょう。それは一度勝った者にしかわからないことだろうと思います。人類の大半は知らずに過ごすものです。きっと、連覇に挑んだ王者たちしかこの気持ちには理解が及ばないでしょう。連覇への道がどれほど苦しくて長くて、世間に理解されない道のりであるか、ということについて。

その気持ちを家に持ち帰ってもらえたらと思います。その難しさを語り合うのがよい相手がいると思います。一二三さんはよく「妹がライバル」「妹がいたからここまで来れた」と詩さんの強さを讃えますが、詩さんも一二三さんの背中を追ってここまで来たのだろうと思います。足並み少しずれて一二三さんが連覇街道で前に出る格好になりましたが、その大きな背中でもう一度、「ふたりの挑戦」を引っ張っていってもらえたらと思います。

そして、このまま家に帰るのは物足りないので、日程の最終日に残された混合団体戦で地元フランスを倒して金を取って帰ってほしいと思います。団体戦の仕組みでは、一番軽量な階級でも一二三さんや詩さんの階級よりも上になりますので、出番はあまりないかもしれませんが、もし機会が巡ってきたら柔よく剛を制すの精神で、相手を投げ飛ばしてもらえたらと思います。そしてふたりで「金」を持ち帰ってもらえたらいいなと思います。一応それも「兄妹で同日金」と言えるっちゃ言えますから!

↓世界の舞台で「柔道」を見せてくれてありがとうございます!



柔道っていいなと思いましたし、きょうだいっていいなと思いました!