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4年に一度議論になる「柔道」と「JUDO」!

パリ五輪が終わりまして世間も急速に冷え込みモードに入っているなか、引きつづき五輪の話をこねくり返していきたいと思います。大会期間中は試合観戦と「メダルだ、わーい!」という話をすることで精一杯でゆっくりまとめる時間がなかったテーマについて、少しずつやっていければというところです。

まず、大会序盤にいろいろな議論を引き起こした「柔道」と「JUDO」について。多くの場合、これは日本選手が負けたときに盛り上がるテーマです。「何だこの負けは」「こんなもの柔道ではない」「JUDOに負けた」と噴き上がりながら、ルールへの不満やら審判への不満やら結果への不満やらをぶつけるのが定番の流れです。

ただ、その議論というのは上手く嚙み合っていないと常々僕は感じています。世間一般の素人の側は4年に一度だけ柔道を見ておりますので、最新のルールやそうなった経緯、技術の進化や流行について把握しておりません。ですので、自分の不満を的確に表現するのが難しい状態です。4年に一度しか見ないのですから、そうなるのは仕方のないことです。世間はそんなに毎日柔道を見るほど柔道を好きでもヒマでもないのです。そして、柔道はそんなに見てもらえるポジションにあるコンテンツではありません。我々素人はハリウッド超大作を見たり、面白新作ゲームをやるのに忙しいのです。

ただ、せっかく見たのに、せっかく自分なりの意見を表明したのに、その表現が不的確だといわゆる詳しい側の人がズレた反応を返してきます。そして、下手に詳しいものですから隙あらばマウントを取ってきます。「ルールがわかってないね」とか「これは優れた技術でーす」とか「日本の選手だってやっていますけど?」とか「嘉納治五郎先生の教えにもかなっているぞ」とか「私は黒帯ですが?」みたいな知識自慢・経歴自慢を始めて、せっかく4年ぶりに柔道を見てくれた人を冷たくあしらいがちです。どの世界にもいるヤなヤツというだけの話ではありますが、せっかくの機会に分断を加速させるのはもったいないと思うわけです。

↓この肩車みたいなのも「柔道」なのか「JUDO」なのかで喧々諤々でしたよね!


この技について的確に不満を伝えるのは結構難しいものです。まずこの技自体がよくわからない。原理としては相手の脇の下に頭を入れて、相手を引きずり倒しながら「肩で担ぐような」態勢を取り(※人間を横にして首と肩の上に乗せているイメージ)、そこから頭の上のほうに抜く感じで相手の身体を畳に落としていますので、肩車だと言われたらそうなんだろうなとは思いますが、パッと見で判断するのは難しいと思います。

↓伝統的・古典的に肩車だと感じるのはコッチの動画みたいな投げですよね!


この動きを足を持たずに、地面スレスレでやることをイメージしてみてください!

さっきの技と近づいていきますから!



この伝統的・古典的な肩車は現在の競技柔道では反則となります。現在の柔道では立ち技において腕を使って「相手の帯から下」を攻撃したりつかんだりブロックしたりすれば反則負けとなります。いわゆるレスリング式の片足タックル(朽木倒し)や両足タックル(双手刈)は反則ですし、前述の伝統的な足を持って持ち上げる肩車も反則となります。ただ難しいのはこれは国際ルールでの話であって、国内向けのルール…講道館ルールでは禁止されていないのです。

なので、前述の肩車のような技に関しても、素人意見がなかなか通らなくなるわけです。「あんなものタックルじゃないか!あれはJUDOレスリングだ!」と言えば「足なんて持ってませんけど」と返ってきますし、「柔道の精神にそむく!」などと言えば「むしろ講道館ではOKなんですけど?」と返ってきますし、「ヘンな技!」とか素人感満載で言おうものなら「あれはルールに対応して生まれた高度な技術!正真正銘の肩車でーす」とガッツリとマウント取られますし、「これだから外国のJUDOはけしからん!」とか言えば「日本の偉大な�眛D昭�選手もさまざまな肩車を使ってますが?知らないんですか?」みたいなことを返されます。そして「普段柔道を見てもいない素人は黙っとれ」とマウント一本で勝負ありとなるわけです。

違う違う違う違う。

素人衆の不満を「正しく表現できていない」からと言って汲み取らないのは有識者のやることではありません。「何もしていないのにパソコンがぶっ壊れました!」という人を、優しくウィンドウズ起動まで導いてこそ有識者のはずです。別にそれは義務ではありませんが、有識者がそんな態度で素人にマウント取って、どうしてこの競技が広まったり発展したりするでしょう。「最初は全員素人」なんですよ。

素人衆の真の不満は「つまらん」ということなのです。日本選手が負けるのは別に構いませんが、あのようなワケのわからん形で負けるのは「つまらん」のです。そしてもっと言えば柔道に素人衆が期待していることは、人間を美しく投げること「だけ」です。フワッと身体が浮いて、人間の身体が宙を舞い、弾むように背中から畳に叩きつけられる「あの瞬間」だけを「柔道」と呼んでいるのです。それ以外の全部は柔道ではないのです。前述の阿部一二三さんを倒した肩車のように、地面スレスレでもちゃくちゃしたものは「柔道」ではないのです。伝統的・古典的な肩車のように立った状態で担いでから投げられたのであれば、「柔道で負けた」と認めてもいいですけれど。

競技スポーツとして発展していくなかで、柔道の技は「相手の背中を地面につける」ことでポイントを取れる建て付けになりましたが、そのルールを真正面から攻略して「背中をつけりゃいいんだな」と思ってやっているすべての選手とすべての試合は、素人衆の感覚では「柔道」ではないのです。ルール云々とか国際的な合意云々ではなく、そんなものは「つまらん」からです。ハッキリ言って、地面付近でもちゃくちゃしながら相手の背中を地面につけるだけなら、グレコローマンスタイルのレスリングを見たほうがよっぽど面白いです。レスリングにだって投げ技はありますし、むしろ豪快です。消極的な選手はすぐ注意されますし、背負い投げ風の偽装攻撃なんか存在しません(レスリングだとその体勢になったら簡単に2点取られるから)。チャレンジの仕組みもありますし、レスリングのほうがよっぽど気持ちよく観戦できます。

それでも我々素人衆が柔道に期待し、柔道を面白いと思うのは、フワッと身体が浮いて、人間の身体が宙を舞い、弾むように背中から畳に叩きつけられるあの瞬間があるからです。いつか飛び出す魔法のような美しい瞬間に期待して、ほかの技を受け入れているのです。本当は内股一本と背負い投げ一本しか認めたくないような気持ちで、「ま、毎試合そうもいかんわな」と思いながら足技とか地面スレスレでのもちゃくちゃを見ているのです。「ホームランを見たいなー」と思いながら「ま、犠牲フライでも1点は1点」と思っているような話なのです。

その意味であの試合は素人衆は大いに不満を溜めたはずの試合です。まともに組み合わない相手。上手な偽装攻撃。なかなか出ない指導。そして最終的にあの地面でもちゃくちゃした一本負け。しかも負けたのは素人衆からも「これは確かに柔道だ」と認められる真の柔道家・阿部一二三さんです。こんなもの面白いわけがありません。その不満をさまざまな表現や理由で(ときに不正確に)発信しているだけで、本当の思いは「つまらん」その一点です。あの試合だって一二三さんが見事に浮かされて、内股でバーンと畳に叩きつけられていたら「ガバ強ぇーーー!」「負けたーーー!」「橋本が秒殺されるからこんなことになるんだよーーー!」と素人衆だって「柔道での敗北」を清々しく受け入れたでしょう。

リネールさんに対する冷ややかな視線も同じ思いから生まれるものです。ハッキリ言ってリネールさんは強いです。まだ10代の頃に、すでに完成した柔道家であった井上康生さんをアッサリと破ったように、リネールさんは世界一の強さを備えています。相手全員を美しく投げようと思えばできるでしょう。しかし、リネールさんはそれを目指していないように感じます。リオ五輪決勝での原沢久喜さんとの「指導決着」などは最たるもので、リネールさんにとっては勝利することが目的であり、そのための手段は別に投げである必要はないのだろうと思います。現在のように指導決着が起きにくい状況なら、「仕方ない、投げるか」とやり出すというだけで、美しく投げようとも思っていないし、一本で勝ちたいとも思っていない、そう感じます。できるはずなのにやらない、そう見えています。

パリ五輪期間中に真の柔道家である大野将平さんも言っていましたが、「正しく組んで正しく投げる」柔道を素人衆は見たいのです。「攻めた結果、相手に指導が行く」のであって最初から指導を狙うような戦いは見たくないのです。「一本を取る」柔道を見たいのです。そして、その一本とは「フワッと身体が浮いて、人間の身体が宙を舞い、弾むように背中から畳に叩きつけられるあの瞬間」のことなのです。それを目指さないものを素人衆はすべて「JUDO」と呼んでいるのです。

結果的に指導決着になるかもしれない。結果的に美しい投げでは決まらないかもしれない。しかし、目指してほしい。ホームランを打ってやると思って打席に入ってほしい。日本人選手もやっていようが、世界のルールで認められていようが関係ありません。美しい投げを目指さなければ「つまらん」のです。「つまらん」ものは「つまらん」のです。素人衆が「JUDO」と言い出したとき、有識者は「この競技はつまらないんだな」「何とかしなきゃヤバイな」「ルールを変えるかルールの運用を変えよう」と思うタイミングなのです。現状を追認して、「俺たちはこういうスポーツ!」とか開き直っている場合ではないのです。

↓真の柔道家である大野将平さんは信じられる!何度もその見解に頷いたパリ五輪でした!



このようなことを踏まえれば、有識者の行動はもっと変化があってしかるべきです。我こそ黒帯、我こそ詳しい者と思うなら、「もっとサンボみたいな投げもあるんだぞ」みたいな知識紹介をしてマウントを取るのではなく、4年に一度の「世間一般による視察の機会」だと受け止めて今後の柔道界の前進に向けたさらなる議論を進めていくべきなのです。「両者直立した状態以外からの投げは全部無効にしよう」とか「両袖を握って防御している輩にはすぐ指導を出そう」とか「パラ柔道みたいに組み合った状態から始めよう」とか、美しい投げをすべての選手が目指し、美しく投げなければ勝てないような環境を整えていくことを考えてほしいのです。

これまでも「足取り」を禁止したり、有効や効果を廃止したりしてきたのは、「美しい投げによる一本」を目指してほしいからでしょう。本来なら禁止しなくていいものまで禁止するのは、日本国内と違って禁止しないとみんなそればかりやるからでしょう。一時期よりは随分とよくなったとは思いますが、それでもまだまだ理想には程遠いのが現状です。その理想からの距離を教えてくれるのが素人衆からの「JUDO」という揶揄であり、「JUDO」と言われる間はまだまだ改善点があるんだなと思って改善に努めてほしいのです。「こういうのはつまんないんだな」と自覚して。

そして日本選手には、発祥の国の誇りを持って美しく投げて勝つ「柔道」を実践してほしいと思います。相手の「JUDO」については受けに徹し、そんなものは通用しないぞと跳ねのけて、美しく投げて勝ってほしい。全員ができるとは思いませんし勝つためにほかの手段を取ることもあるでしょうが、日本が真の柔道家を生み出せなくなったら、この競技はジャケットを着て行なうレスリングになってしまいます。それがダメとは言いませんが、それなら五輪には「レスリング」だけがあれば十分。似たようなものを2つもやる余裕も意味もありません。この競技の魅力と面白さを体現する真の柔道家を輩出するのは日本のつとめであり、柔道発展のために必要なことなのです。だって、日本が一番柔道を愛しているんでしょう?大切なんでしょう?それとも柔道の未来はフランスにお任せして、まともに組み合わずに地面でもちゃくちゃしますか?

美しく投げて勝つ。

相手を魔法のように宙に舞わせて畳に叩きつける。

それが柔道の魅力であり、それを失ってはいけないと思います。世界がどれだけ違う方向に進もうとも、日本の真の柔道家がそれを打ち破り、柔道への憧れを生み出さないといけないと思います。真の王者は勝てばいいのではありません。皆が憧れる存在でないといけません。柔道への憧れを生み出すのは、美しい投げによる一本、それが究極ですべてだと僕は思います。「そんなことはどうでもいい」と柔道界隈の人が思うなら、それはそれでひとつの選択ですが、その先にある未来は「JUDO」とも呼ばれなくなる静かなものだろうなと思いますね!

↓美しい投げを目指し、美しい投げで勝てる者が真の柔道家だと僕は思います!


これを見たくて柔道を見ています!

毎回見せてもらえるわけではありませんが!



有識者は「柔道=面白い」「JUDO=つまらん」と受け止めてください!