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もしも背中に羽があったら金メダルいくつ取れるかな!

引きつづきパリ五輪期間中に手がつかなかったテーマについてまとめていきます。今回はボクシング女子66キロ級のイマネ・ケリフさんについて世界で起きた議論を念頭に、競技における出場選手の区分けについて自分なりの気持ちを整理しておきたいと思います。



どこまでいっても答えは出ない気がしますし、答えは日々変わっていくような気もしますので、とりとめのない話になりそうですが、いい機会なので自分自身の整理とできればと思います。なので、あくまでも一般論として考えるようにできればと思います。当該の選手の人生や事情について詳しく承知しておりませんし、その人がどうこうではなく、一般論として区分けがあることや今後どうしていくのかという話にできればと思います。

世界の現状がどうなっていて、具体的な事例にどういう対応が行なわれていてという部分は、あまり正確に紹介できる気がしませんので、数年前のものになりますが、そういったテーマでまとめていただいている論文をご案内しまして、各位でご覧いただければと思います。本稿で取り上げられているロンドン五輪・リオ五輪で陸上女子800メートルの金を取ったキャスター・セメンヤさんの事例などは、今回のパリでの出来事にも重なるものかなと思います。ひとつ学びを経たうえで、僕は自分自身の「お気持ち」の部分を整理していければと思います。

↓おまとめいただきありがとうございます!



まず、「何故分けるのか」という部分から改めて考えていきます。そもそも人間は皆同じ、皆仲間という観点から言えば、「分ける必要ないのでは?」という発想はあり得るはずです。参加資格は「人間であること」のみの全員参加の無差別級。これ一本でいけば誰が何をどうしようが正しさの部分では問題は起きないでしょう。よし正しい答えが出た。議論終了!

……と、スンナリ受け入れられるかというとそんなわけはありません。正しければ楽しいとは限りません。まず何となく「男・女」で分けたくなってしまう。馬術のように男性も女性も牡馬も牝馬もないスポーツもありますが、いろいろな局面においてムクムクと「分けたくなってしまう」気持ちは否めません。古来から何となくそうなってきたのですから、そうするものだと何となく思い込んでしまっています。

その分けたくなってしまう気持ちを見つめていくと、実はひとつではなく色々な意味でそうしているのかなと思えてきます。スポーツで言えば、ひとつは「能力差」です。全員に当てはまることではありませんが、総じて男子選手のほうが女子選手よりも身体能力は高い気がします。ガタイもいいし、チカラも強そうだし、代表クラスの女子チームが高校生男子とかにヒネられたりする事例もよく見ます。高校生男子のほうが普通にデカいですからね。何となく有意な差がある気がします。

しかし、能力差があるというだけなら、もっといろいろな要素が世の中にはあります。人種だってそうです。同じようなものを食べていても「アイツらのほうがデカいな…」って感じたり、同じような練習をしていても「アイツらのほうが速いな…」って思ったり、そもそも集団として差がある気がします。ですが、その差については「分けない」ですよね。まぁ大陸とか地域ごとの大会があるのでそこで気が済んでいるのかもしれませんが、「すまんのぉこの試合はアジア人種だけなんじゃ」「ちょっと違うと思うんでちょっと分けたいんじゃ」「ラモスお断り」とはなっていないですし、むしろそのボーダーはどんどんなくなっています。どの国のどの競技の選手もいろいろな人種の人がいます。必ずしも「能力差がある要素は分ける」わけでもなさそうです。

ただし、今引き合いに出したラモス瑠偉さんは人種を理由にどこかでお断りはされていませんが、ほかの区分けでは引っ掛かってきます。国籍です。ラモス瑠偉さんはブラジルで生まれ、もともとブラジル人として生きてきましたが今は「日本人」です。まぁ厳密には両方の国籍を持っていたりするのかもしれませんが(※ラモスに造詣が浅く不明瞭で恐縮です/ラモス造詣を深める気持ちもないので…)、ナントカ代表になるなら日本代表ということになるでしょう。これは能力差によって分けているものではなく、大和魂とか愛国心とかたまたまそう生まれたからとか法律とか、個人の「お気持ち」を含めた別の理由でそうなっているものです。何ならラモスさんのように後から変えることだって可能です。

何で国籍で分けているのかとなると、これはもう理由を決めるのも難しいですが、「仲間な気がする」とか「全然別な気がする」とか「気づいたらそうなってたから」とかしかないのかなと。そんな曖昧なものを残しているのは、たぶん「面白いから」だと思うのです。仲間内で誰が一番かというのは単純に知りたいですし、何となく仲間だと思っている気の合う人同士が一緒になって、何となく仲間ではないなと思っている人たちと対戦すると面白いですよね。いがみ合う集団同士でバチバチするのも殺伐とはしますが激熱ですし、我が方の代表が活躍したらやっぱり嬉しいですよね。自分のことのように。それが生まれも人種も見た目もノリも全然違うラモスさんでも。

とすると、もしかしたら「男・女」も能力差による区分けだけではないのかなと思います。「何となく」分けているのかなと。それは生物としての本能なのかもしれませんし、何となく世界がそうなっているからかもしれませんが、「何となく男・女を分けている」区分けと「能力差があるので男・女を分けている」区分けがダブルであるのではないでしょうか。オセロとか麻雀みたいな身体能力関係なさそうなものでも何となく男・女の大会があったりしますし(※見えづらい能力差があるのかもしれないが)、能力差と関係なく何となく分けちゃってるだけの区分けもあるのではないのかなと。それなのに、男・女の区分けは万能で絶対的な一本の線だとイメージしてしまっているところにボタンの掛け違いがあって、ちゃんと一本ずつ丁寧に線を引くべきだったりするのではないでしょうか。

自分がどっちであるかという「何となく」の区分けは、ラモスさんの国籍のように「自分はコッチだと思う」「生まれたときからそうだった」「法律でそうなっている」「手続きや審査は大変だったけどあとからでも変えられた、よかった」という形で、能力差とは関係ない社会のありようとして決めたり選んだり変えたりすればいいのかもしれない。

そして能力差という部分は逆に「男・女」でお手軽に分けていたものを、「ちゃんと分けるならどうすればいいんだ?」というのを考える必要があるのかもしれない。これまでは体重差で階級を分けるくらいしかイイ分け方を思いついてきませんでしたが、適切かはさておき体内のホルモンの数値(テストステロン値)で分けるとか、人種や国籍や性別によらずキチンと測ることができて公平な感じがするモノサシを世界が新たに認識する必要があるのかなと思いました。

その2本をしっかり別々に認識して運用できれば、いろいろなことが整理できそうな気がします。「何となく男・女で分けてしまっていたが」「この競技、別に身体的な能力差関係なくない?」「じゃあ分けなくていいか」と無用な区分けを撤廃する方向に進むパターンだってあり得るでしょう。たとえばパリ五輪では、アーティスティックスイミング…かつてシンクロナイズドスイミングと呼ばれていた競技の団体戦に男子選手が2名まで出場することが可能でした。実際にはそういうチームはなかったようですが、アメリカではビル・メイさんという45歳の男子選手が最後まで代表入りを目指していました。これなども「よく考えたら男・女の区分けウチはいらなくない?」に踏み出した例でしょう。

↓五輪でお披露目があれば世界も「おっ」となったと思うんですがね!



世界のどこかに「女性として生まれ、身体的な特徴も見た感じは女性で、法的にも女性で、女性として育てられて、自分を女性だと思っているのだけれど、大人になっていろいろ調べたら実は胎児の時点から性分化が行なわれていなくて、内臓とか男性っぽい感じになっていて、その影響で男性ホルモンがたくさん出ていて、身体が成長するなかでムキムキで男前になりました」みたいな選手がいたとき、僕はこれを1本の線で区分けするのは難しいと思うのです。身体能力が男性っぽかったり、見た目が男性っぽかったりしても、その人は「女性」として生きているのですから。

「自分はコッチだと思っている」ほうから外されたり、「コッチではないと思っている」ほうに突っ込まれたり、ましてや「うーん、新しいところへどうぞ!」とどちらでもない場所に案内されたりしたら、いたたまれないでしょう。「うーん、この地上にラモスの国はないんだよね…」みたいな話になったら、いたたまれないでしょう。それは自分がコッチだと思うほうに入れる世界がいいんじゃないでしょうか。そして、もしも能力差などで何か分けないと「差があり過ぎて競争にならない」「納得感がない」「面白くない」のなら、それはまた別の区分けでやるべきだと思うのです。「性別検査」とかの男・女を見定めるためのモノサシをあてがうのではなく、階級みたいに能力差を見る別のモノサシで。そのモノサシを生み出して、たくさんの人が認識して、納得して、世界に広く行き渡らせるということが必要なのかなと思います。「体重で階級分けします」って言われたときに「はい」って思うくらいのスンナリ感になるまで。

そして、それは各競技において、それぞれがやるしかないと思います。どんな能力が効いていて、それがどれくらい違うと「競争にならない」「納得できない」「面白くない」のかは競技それぞれで違いますから。馬術やアーティスティックスイミングのように「ウチは分けなくていい」という競技もあれば、陸上のように「テストステロン値とかで分けるか」という競技もあるでしょうし、あるいは競馬のように「区分けはせずハンデをつけることでバランスを取ろう」という考えを採用する競技もあるでしょう。格闘技のように「能力差があると危ない」が主な心配事であれば、「1階級分ハンデつけましょう」といったバランスの話に加えて、「安全」を守るためにグローブやヘッドギアを改良するという解決策もあり得るのかなと思います。たったひとつの「正しい」基準ではなく、それぞれが「納得する」ことが重要なのかなと思います。

そういうモノサシが各競技でしっかり行き渡っていれば、自然な選択としてそれぞれが行きたい場所を決められるのではないでしょうか。今だって「私身長低いけど、バレーは明らかに高身長が有利…」「そこに能力差を考慮する仕組みはない…」「背が低い私はただただ不利…」と分かっていても「それでもバレーがやりたい!」という選択はあるわけです。同じように「私がその競技に行ったら、1階級分ハンデ背負うのか…」が分かっていれば、それでもやるのか、やっぱりほかを考えるのか、自分の場所を探せると思うのです。ほかの選手も「そういう人が来るかもしれんな」と思いながら、「まぁしっかり能力で区分けしてくれればいいよ」と納得もできる塩梅が見つかるかもしれませんし。

なので、今能力差について区分けする十分なモノサシがないなかで「お前、妙に能力高そう」で誰かを排除するのは、違うのかなと僕は思いました。「お前、男・女で言えばアッチだろ」と別のモノサシを持ち出して、他人が他人の在り様を勝手に決めることで能力差のバランスを取ろうとするのも上手くないのかなと思います。商店街の草サッカー大会で急にラモス連れてきたら「何で商店街の草サッカーにラモスがいるんだよ!」「昨日シュラスコ屋をオープンしただぁ?」「きったねー!」くらいは思うかもしれませんが、「上手い人禁止」のルールもないなかでラモスを封じるのはナイんだろうと思います。

↓新しくオープンしたシュラスコ屋の店長だって言われたら、商店街草サッカー大会へのラモス参加を認めるしかないですよね!


子どもの頃からよく思う夢のひとつに「空が飛べたら」というのがあります。背中に羽が生えていて空が飛べたら、棒高跳びの世界記録を1センチずつ更新してお金稼いだり(※棒は荷物になるので使わないぞ)、バスケットボールのNBAファイナルでダンク100本決めたり(※パスが取れなくて半分くらい外すぞ)、体操で5回宙返りとかやったりして(※目が回って着地はミスるが)、オリンピックで金メダル20個くらい取ってやろうと思っていましたが、世界の様子を見ていたらそれはナイんだなと思いました。生まれたときから羽が生えていたとしても、「その羽ズルくない?」「お前、人間じゃないだろ」と叩かれて潰されるんだなと思いました。公平感も納得感もなく、能力差があり過ぎて競争にならないのでは「面白くない」というのは、まぁそうなのかなと思います。

なので、もしも僕の背中に羽が生えていたなら、「この羽を気にせずにやれる競技はないか」というのを知りたいかなと思います。あるいは「羽のある人への対応」が明確にわかる競技でもいいですが。「もげ」と書いてあったら止めますし、「痺れ薬で麻痺させてください」なら検討しますし、「畳んであればいいですよ」だったらやってみようかなと思いますし、そういう部分をちゃんと整備することが必要なのではないかなと思いました。上手くバランスが取れるまでしばらくかかるかもしれませんが、やらずに放置すればそのぶん完成は遅れていきますので、始める必要があるんだろうなと思います。セメンヤさんと出会ったときに世界が真剣になることもできたはずですが、まぁ今日より早い日はありませんので、やっていくんだろうと思います。将来の子どもたちがどんな夢を見ていいのか、夢見た世界が冷たく背を向けたりしないのか、ちゃんとわかるように。

「羽有りの居場所はないんだよ」ではなく、

「羽有りの人はこうしてください」がわかる世界。

そういう未来へ進んでいけたらいいなと思いました!



何となく重量挙げは羽が生えててもやらせてくれそうな気がしました!