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命とは?命の意味とは?それを問いつづける!

行ってまいりました、羽生結弦氏アイスストーリー3rd「Echoes of Life」さいたま公演2日目に。初演の衝撃に呆然自失し、「何も言えねぇ」と身悶えながらストーリーブック片手にCS放送の録画を見返す時間。数十時間の思索を経てようやく、絞り出すように感想などまとめていきたいと思います。入口のドアに触れているのかどうかさえわからないほどの確信のなさですが、こうして考えること、思考しつづけること自体がアイスストーリーの楽しみ方であろうと思いますので、臆せずに出していこうと思います。そんなことですので、以降は僕がそう思った、そう理解した、そう受け取ったという個人的所感の羅列であることを念頭に、諸説のひとつとして見てやっていただければと思います。

↓好天にも恵まれ公演2日目も大盛況でした!
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↓このあといろいろ話に出てくるのでセットリストは各自でご確認ください!



まず本公演の大きなテーマとなるのは「命とは?」「命の意味とは?」を問うことであろうと思います。いわゆる哲学、まさに哲学。図らずも大きな天災に見舞われたり、時代を担うスーパースターとなったりしてきた羽生氏がその人生のなかで重ねてきた「命とは?」「命の意味とは?」という問いに対して、自らの思うところを発信すると同時に、見る人にもそれを考えてほしいと働きかける、そんな「哲学ショー」なのであろうと受け止めています。

ショーは第1部・第2部の前後半2部構成にわかれていますが、この2部は重なり合う問いの発展的再生産なのではないかと思います。第1部では「命とは?」という根源的な問いに向き合い、そのなかで「わたし」という存在を深く見つめていきます。第1部のラストでひとつの答えを見出しはするわけですが、その答えには「でも命はいつか死にますよね?」という不可避の根源的な否定が突きつけられ、改めて命について思索を重ねるなかで、その否定を乗り越え「命の意味」にたどりつくのが第2部なのだろうと感じています。

その重なりや繰り返しは、第2部の冒頭に第1部の内容をダイジェストで演じるかのような場面があることや、第1部のピアノコレクションで用いられたテキストが再び第2部でも用いられていることから感じ取ることができます。これは「RE_PRAY」公演で第1部と第2部の冒頭演目が同じ楽曲の別バージョンであり、そこから異なる展開を描いて見せたこととも共通する、アイスストーリーならではの構成なのかなと思います。体力回復や整氷作業といった現実的要請による30分間ほどの中断時間を、「時間経過による発展」として活かす演出、それはある種の発明だなと改めて感嘆します。

ストーリーやキャラクターの設定も、「命とは?」「命の意味とは?」を問うために生み出されたもののように感じます。本作の主人公である「VGH-257」「Nova」と呼ばれる人物は、自身の存在を問わずにはいられないような設定をこれでもかと塗り重ねられています。「たったひとり生命のない世界で目覚めたこと」「遺伝子操作によって造られし者であること」「遺伝子操作技術の発展により、この世界では種としての人間の価値が低くなっていること」「破壊と再生のチカラを持つこと」「VGH-257はもとは人間であったこと」「孤児であったこと」「この世界の崩壊の元凶になってしまったこと」などは、「問い」から逆算されている人物像なのかなと思います。「問い」が発端で、その問いが自然になされるように世界や物語、人物像が生み出されていった、そういう順番かなと思うのです。

すべては「問う」ために。

そんなことを思いながら、公演の流れに沿って思いを巡らせていきたいと思います。

↓リンクを囲むガレキや噴煙が崩壊した世界をありありと描き出す!
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●冒頭〜「First Pulse」
命の目覚めを描く冒頭部。主人公である「VGH-257」「Nova」がほかに命がひとつも存在しない崩壊した世界で目を覚まします。言語や知識など文明の残滓はあるものの、自身以外には誰も存在しない世界。そこでは自分の存在を知る者も、自分を観測する者もいません。ほかの誰も観測できないものは、「すべて夢なのでは?」という疑いを否定できません。存在は観測されてはじめて、ありありと証明されるのです。自分自身の存在証明すら困難な世界に目覚めたNovaは、ラボのドアを開けて「わたしとは?」「命とは?」を問う旅に出ます。

●幕間〜「産声〜めぐり」
Novaは自身が遺伝子操作によって造られし者であることを認識します。造られし者であるNovaは、まず自身が「命」であるのかどうかすら疑う必要があります。そもそも命とは何なのか。生まれるとはどういうことなのか。造られし存在であるNovaにとっては、そのどちらも不確かなものです。たとえば自身が「人口的に合成された有機物が自律的に動いている」だけであったなら、それは「命」と呼べるのでしょうか?命の在り処を求めるように木に手を伸ばすNova。もとは命を宿していたけれど今は砂に還ろうとしている「かつて木だったもの」は命なのでしょうか?それともただの器なのでしょうか?命とはどこにあるものなのでしょうか?

Novaはその問いに向き合うにあたり、走ります。鼓動が高鳴り、息が上がり、苦しくなったことでしょう。Novaはそうした肉体的な反応に「命」を見出しています。命が何なのかはわからないけれど、激しく動き、肉体が苦しみながら前に進んでいることを確かに感じているのです。「生きている実感」があるような気がしているのです。それはこの先の問いには耐えられない不十分な答えかもしれませんが、Novaは自身の鼓動に「命」を感じたのです。そして、その「音」はNovaが持つ特別なチカラによって木の芽となって「再生」されます。命があること、生まれるということをNovaは体験したのです。

そしてNovaは「生まれる」とはどういうことかへの問いをきっかけに「ルーム」と呼ばれる空間に招かれます。さまざまな知識が集約された深層心理の世界のようなものをイメージすればいいでしょうか。そこでNovaは言葉を得て、それを音として身にまとい再生するわけですが、その部分はリンク上の羽生氏の演技によって表現されます。リンクに現れた羽生氏もまた「音をまとう者」ですので、Novaが「言葉を音として身に宿して再生する」ように、羽生氏もまた「言葉を音としてまといリンクで表現する」のです。要するに、哲学的な問いがあり、それに対する自分なりの回答もあるのだけれど、それを「音としてまとって演技で表現する」ということです。「幕間映像に問いがあって、氷上演技で答えを出す」という構造はこのあともストーリー全体で貫かれていきます。

ここで演じられるのは映画「おおかみこどもの雨と雪」の楽曲「産声」「めぐり」です。おおかみおとこと人間の間に生まれた「雪」「雨」ふたりの姉弟の成長を描く映画の世界は、造られし者として生まれたNovaの境遇とも重なるところがあります。Novaがやがて「造られし者」としての自分と、「人間」としての自分の間で葛藤していくように。祝福ばかりではないかもしれない、生まれることの辛さ、苦しさ、罪をも内包するような「命」の始まりを描く演目と感じます。

●幕間〜「Utai IV -Reawakening」
自分に何らかのチカラがあることを知ったNovaは、自分は何故こんなことができるのか、何をすべきなのかを考え始めます。そこで、まずは世界に対する知識を深め、答えを探ろうとします。そのなかでNovaはかつてここで「人間」と「造られし者」との戦争があったことを知ります。戦争においては軍隊が編成され、強いリーダーが集団を率い、各人に役割を与えて統率されます。このように「誰かとの関係性のなかで発揮されるチカラ」はとても明瞭です。それぞれの命にハッキリとした「役割」が与えられるからです。では「たったひとりで存在する」Novaにも、それはあるのでしょうか。「たったひとり残された」ことに役割はあるのでしょうか。Novaは自分と世界との関係性に目を向けていきます。

このパートの演目で使われる楽曲は「攻殻機動隊」のハリウッド実写版映画「GHOST IN THE SHELL」で使われているバージョンであるとのこと。「攻殻機動隊」は義体と呼ばれる機械の身体に脳や記憶を宿す技術が主要な設定となっている作品。その機械の身体のなかにも、人間のアイデンティティすなわち魂として「ゴースト」なるものが宿る…そんな世界観のなか命とは何なのかを問い掛ける作品です。Novaもまた造られし者であり、「命」と呼べるのか不確かな者ですが、攻殻機動隊の世界に沿うならば「造られし者にも命は宿る」と考えたのかなと思います。そして、「攻殻機動隊」の世界に思いを馳せながら、この「謡」が描く「遠神恵賜」(※ご先祖様に恵みを乞う的なる)生命の連なりに、自分もまた加わっていくという「役割」を見出したのではないでしょうか。たったひとり残された命である私にも、何か託された役割があるはずだ、と。

●幕間〜「Mass Destruction -Reload-」
Novaは公園で見つけた日記帳を読み、さまざまな喜怒哀楽と愛をその身に宿していきます。しかし、ひとつひとつの命の存在を認識し、それらがひとつひとつの人生であったことを知るなかで、この世界が崩壊したことへの憎悪の音をもまた再生してしまいます。世界が崩壊するほどの戦いで生み出された憎悪はいかほどのものでしょう。正義と正義がぶつかり合い、互いに退かない終末への歩み。Novaはそのなかで自分が存在するために、あるいは自分という存在を守るために、自身もまた「正義」を持とうと試みます。それもまた「命」のありようを認識するためのひとつの手法なのかもしれません。観測されることで命は「存在」し、他者との関係のなかで命は「役割」を持ち、正義を持つことで命がそこにいることの「正当性」を得るかのような。「ここにいていいんだ」と感じられるかのような。

演目で用いられるのはゲーム「ペルソナ3」の戦闘曲。直訳すれば大量殺戮となる曲名は、Novaが背負った業を示唆するようでもあります。羽生氏はゲーム世界の登場人物たちが自身の能力である「ペルソナ」を召喚するときの「こめかみを銃で撃つような仕草」を取り入れながら、正義を行使する大量殺戮兵器としてのNovaを演じていきます。リンクとスクリーンには巨大な羽生氏のシルエットが表示されますが、それはまさに具現化したペルソナのイメージを思わせるもの。血塗られたような真っ赤な道を通って引き上げていく姿は、「RE_PRAY」で見せた「MEGALOVANIA」のサンズのような、背筋も凍るほどの殺気に満ちていました。

●幕間〜、ピアノコレクション
正義を行使し、戦いに勝利したNovaですが、再び問いは同じ場所に巡ってきます。他者との関係性のなかで役割を探し、正義のもとにチカラを行使したはずが、かえって自分自身が見えなくなるような所在のなさを覚えたのです。他者も、役割も、VGH-257という名前も、正義も悪もなかったとしたら、私とはどんなものか定義できるのか、と。それは繰り返される哲学的な問いであり、問い返すなかで思考を深めていくこともまた哲学である、そんなことを示唆するくだりのようにも感じます。

「ルーム」は「あなたはあなたであることを自分で選んでいる」「長い時間をかけ、回り道をしながら、心の臓器で飲み込んでいく」ことが必要だと示唆します。つまり、納得するまで何度でも考えよと言うのです。そしてNovaは再び問い直し始めます。ここから描かれるピアノコレクションで、さまざまなピアノ曲に合わせて「Awake」「Impulse」「Philosophy」「Truth」「Zero」と演じる流れは、ここまでの思考の旅をやり直すかのよう。ひとり目覚め、衝動のままに走り、自身について考え始め(そこで生まれる戦いをジャンプで表現)、答えが出たような気がしても再び思考を巡らせて真実を求め(巡る思考をスピンで表現)、そして過去でも未来でもどこでもないゼロ…「今」という名のゼロポイントにたどり着く、そんな展開なのかなと思います。

かねてより10分ほどの長いプログラムを演じる構想を語っていた羽生氏ですが、哲学という題材に向き合ったことで、それを実践する格好の機会を得たのではないでしょうか。「何度も何度も思考する」という哲学の様を、ここまで演じたストーリーを10分超のピアノコレクションで超圧縮再演するという構成は、哲学という問いつづける学問を表現するのにあたって、単なる繰り返しではなくエンターテインメントとしてそれを成立させる上手い手法だなと思いました。

●幕間〜、「バラード第1番」
「過去」「今」「未来」について思考するNova。ルームは過去も未来も存在していないことを示唆します。過去は「今」が存在するから、かつてそういった出来事があったと観測できるだけであり、未来はそもそも存在などせず、そこにあるのはただ「今」だけなのであると。未来があるように感じるのは脳や肉体が「生きたい」と欲するために、さも未来が存在するかのように勝手に確信しているのであると。そんな「今」の連続のなかで、無限の可能性のなかから偶発的に生まれたものが「運命」なのであると。

なるほど、人はときに運命を感じるものですが、それはものすごい偶然に過ぎないのかもしれません。偶然それが起きた世界線では、さも「それが運命だった」と後付けで勝手に思っているのかもしれません。それでも人は未来を信じながら「今」を生きています。次の瞬間、宇宙がすべて消えてなくならないとは誰にも言えないのに、未来があると信じて「今」を生きています。上手く言葉になりませんが、もしかしたら命は「今」にあり、生きるとは「今」にあるものなのかもしれないなと思います。「今」という存在を確かに認めることで、そこに命があることや、わたしがいることも確かになるとでもいう感じで。

ここで演じるのが「バラード第1番」であるというのは、ピアノコレクションからのつながりという構成的な意味合いと同時に、「羽生結弦にとってのバラ1」という運命性をも醸し出すものだなと感じます。大きな怪我から復活しての五輪金、連覇を果たした平昌五輪のあの時、あの世界線が選ばれたことは単なる偶然の連鎖だったのかもしれませんが、そうなるべくしてそうなったような運命を感じさせる出来事でもありましたから。長いピアノコレクションのあとに競技会相当の構成でバラ1を演じるというのはかなりのハードワークですが、それでこそ心にあの日の「運命」が甦るというもの。これが羽生結弦だ、そう感じたあの瞬間のことが。

●幕間〜、「Goliath(2024Remix)」
プロジェクションマッピングとの共同作業で、リンク上に図形を描いていく羽生氏。美しい直線的な滑りは、目印のライトがあるとは言え、見事なまでに真っ直ぐに予定の図形をトレースする滑りです。少しのズレでも不格好になる演出を見事にやってのける、これぞ技術に宿る美しさでしょう。

その図形は、どうやら過去の戦争で用いられたどこかの集団の旗印であったよう。Novaにとっては忌まわしい記憶でもあるようです。その記憶の再生とともにNovaの脳内で鳴り響くアラート音と、赤と青で切り替わるNovaの全身図。どうやら、本来Novaのチカラは戦争のための殺戮兵器としてのそれであったようです。殺戮兵器「VGH-257」としての彼が果たそうとする役割と、新しい世界に遺された「Nova」としての彼が案内人とともに探してきた命のありようとが、激しくぶつかり合います。

ここで演じられるのは、羽生氏のYouTubeチャンネルで演じられた「Goliath」です。特に何かのコンテンツに用いられた楽曲ということではなく、作曲者のもっぴーさうんどさんがフリー音源として公開していた楽曲を羽生氏が選び、プログラムへと仕立てたもの。このアイスストーリーという大舞台の第1部クライマックスでフリー音源であった「Goliath」が用いられるというのは、ドリームを感じる出来事です。これもまたゾクリとするほどの「運命」なのでしょうか。

この楽曲が持つ戦いのイメージを活かした激しいプログラム。そのなかでNovaは、かつて誰かに与えられた「VGH-257」としての役割や命ではなく、今そこにある「Nova」としての自分を貫き、自分という存在を確かに見出したようでした。私は生きている、私は今ここにいる、ここにいる私が私である、と。戦い終えて座り込んだNovaが見つけた「わたし」という「命」は、しばしの休憩を経て、新たな問いに向き合うことになるわけですが、それは第2部のお話です。

●第2部冒頭〜、「アクアの旅路」
第1部をダイジェストで再演するかのように「命とは?」「わたしとは?」の問いに向き合う第2部冒頭。ストーリーブックではこのくだりで「VGHと人間とが仲睦まじくしている写真」を「(おそらくNovaが落とした)ロケットペンダントのなかから見つけ」、青いカーネーションを芽吹かせるという展開も描かれていましたが、公演ではそこまで踏み込んだ表現はせずに、Novaが命の役割を見出し始める様子が静かに描かれます。

ここで演じるのは、こちらもやはりYouTubeで演じられた「アクアの旅路」。第1部ラストの「Goliath」と同じくもっぴーさうんどさんの楽曲を連続させることで、30分休憩の時間的経過を経ても世界観のつながりがしっかりと伝わってきます。演技中に扉の前でへたり込むポーズがあるのも「Goliath」からの連続性を感じさせます。その意味では、ストーリーブックとは多少ずれますが、第1部で答えを見出したところまでを改めて追いかけた、といったくだりなのかもしれません。

●幕間〜、「Eclipse/blue」
ここからが第2部の本編と言えるでしょうか。朽ち果てた巨大な塔をのぼるNova。第1部にも楽曲が登場した「ペルソナ3」から連想するなら、この塔はタルタロスという塔のダンジョンのようなものであるのかなと思います。タルタロスの最上階に待つのは「死」です。この場面で、Novaに対してもやはり「死」という問いが突きつけられます。どんな命もいつか死ぬ、死んだらすべて終わりではないかと。特にNovaはほかに命のない世界にいるたったひとりの存在です。死ねば無、無しか残りません。その問いは、これまで見つけた答えを粉砕するほどの重いものです。

そんなNovaに、塔は過去の記憶を蘇らせます。自身がかつて人間であったこと、孤児であったこと、少女のような姿の誰かが手を差し伸べてくれたこと、少女のような誰かと引き裂かれたこと、その後、世界が火に包まれたこと。公演では詳細が描かれませんが、ストーリーブックではこのくだりについて、遺伝子操作技術が発達したこの世界では種としての人間の価値が下がり(※人手が必要なら遺伝子操作で作ればいいから)、孤児であった人間、まして健康面で難がある人間などは間引かれるような存在であったと背景を語っています。そんな孤児である人間に手を差し伸べたVGHがいて、しかし孤児は救われることなく死に、その悲しみによって手を差し伸べたVGHも死に、悲しみがほかのVGHに伝播して終末戦争が起きたのであると。かつて人間の孤児であり、のちにVGHとして蘇生された「VGH-257」「Nova」こそが世界崩壊の発端だったのだというストーリーです。

これは設定の妙というか、Novaは生まれながらにして原罪を背負っていた、そんな人物像が与えられているのだなと感じます。原罪を背負って、それでも生まれ、生きるのかと、Novaに問い掛けるための設定なのかなと思います。そして「生まれたこと自体が罪であるし、どうせ死ぬわけだし、生まれなくてもよかったのでは?命なんてなくてもよかったのでは?」と突きつけるわけです。

そんなNovaに対して、ルームが見るように告げた、Novaの手のなかに大切に握られた言葉が「愛してる VGH-127」というものでした。これこそが「Echoes of Life」であり、本公演のなかで描くひとつの答えなのでしょう。VGH-127はかつて孤児に手を差し伸べ、孤児の死を悲しんで死んだVGHでしょう。すでに命はなく、「今」に存在してもいません。過去に存在していたことが観測されるだけの、すでに存在しないものです。それでもVGH-127が遺した言葉は、「今」に干渉し、Novaを前に踏み出させるのです。まるでこだまでもするように、すでに存在しない命が、今そこにある命に時間を置いて干渉し、新たな命の響きを誘うのです。死してなお命に干渉するのです。過去から見れば未来である「今」に干渉するのです。それは「死」を超えたということにはならないでしょうか。VGH-127の命は死を超えて今も存在し、Novaの命を通じて響きつづけているのです。

ここでNovaであるところの羽生氏は再び思考を巡らせます。第1部のピアノコレクションでも用いられたテキストをナレーションで読み上げながら、「Eclipse/blue」に乗せてさらにそのつづきを深く深く思考していきます。そして、今度は「今」という真実のみならず、記録が記す「過去」も、臨むべき「未来」も、「今」と引き剥がせないものとして、進むための後押しにしていくのだと言うように。

●GATE OF STEINER -Aesthetics on Ice
「Eclipse/blue」から連続して演じられるこの演目は、ゲーム・アニメ「STEINS;GATE」のテーマ曲である「GATE OF STEINER」ほか複数の楽曲を再構成した本公演ならではのアレンジである模様。すべての世界線を認識できるチカラを持つ主人公が、過去に干渉しながら望むべき世界線に到達し、世界と仲間を救おうとする物語である「STEINS;GATE」の世界観を背景に、今を選びつづけることで「運命」を作り出していくような命のありようを描いているのかなと感じました。Novaはすべての世界線を認識できるわけではないようですが、無数に枝分かれした世界線が存在するという認識のなかで、その1本を懸命に選びつづけていく、そんな「今」を積み重ねていくという決意を示すかのように。

●幕間〜、「Danny Boy」
荒廃した世界を歩くNovaですが、世界には少しずつ命が戻ってきています。青い蝶が飛び、鳥のさえずりが響き、芝生のようなものが芽吹き、かつてそこにあったのであろう花の記憶が再生されています。ガレキのようなもので囲まれていたリンク周辺にもプロジェクションマッピングで緑の草原が映し出され、世界に命が甦るさまが描かれます。Novaが自身の「再生」のチカラを使って、世界に命の記憶を再生したのでしょう。

そこで演じられるのが「Danny Boy」。東日本大震災への思いを込めた公演「notte stellata」などで演じられてきたこの演目は、帰らない過去を想い、未来への希望を祈るような演目。それはNovaがストーリーのなかで見出した自身の命のありようなのかもしれません。かつて自身が引き起こした悲しみと生まれながらの罪を背負い、それでも今を懸命に生きて、未来に向かっていこうとする覚悟のような。破壊ではなく、再生にチカラを使う、そんな命の意味を選ぶような。

●幕間〜、「全ての人の魂の詩」
Novaはストーリーのなかで自身の命の意味を「再生」に見出しました。VGH-127が示してくれたように、Novaの命もまたこだまのようにほかの命を響かせていくのでしょう。ですが、それはNovaの答えであり、本当に大切なのは「命の意味」を考えつづけていくこと、問いつづけていくことなのかなと思います。

最後に演じる「全ての人の魂の詩」はゲーム「ペルソナ3」のベルベットルームという空間…本公演の「ルーム」に相当する空間で流れる楽曲で、そのイメージを重ねるようにリンクにはルームにあったような扉が降りてきます。その扉、すなわち「問い」をくぐり抜け、Novaはどこかへと進んでいきます。それは未来と呼ばれるものなのでしょうか。いずれにしても問いつづけた先にそれはあります。だから、問いつづけていこう。何度も問い、考え、変化し、無限の世界線に分岐していく今を、その多様な可能性を大切にしていこう……そんなことを思う幕切れでした。

↓答えはそれぞれの人が「問いつづける」ことで、それぞれに手にするものなのでしょう!
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公式パンフレットによれば、今作の制作にあたっては一度書き上げたストーリーがあったけれど「Echoes of Life」というタイトルが決まってからストーリーをすべて書き直す必要に迫られたことが明かされています。書き直し前がどんなストーリーだったのかは知る由もありませんが、少なくとも、より希望に満ちたストーリーに書き換えられたのだろうと思います。「死」という「命」の終わり、「無」に立ち向かった先に「Echoes of Life」という希望を見出したからこその書き直しなのでしょうから。

命はこだまする。命は響き合う。

僕は歴史にも記録にも残らない名もなき命かもしれませんが、エコーとなってどこかに何かの響きを起こすことができたなら、バタフライエフェクトのようにその小さな残響が世界や未来に干渉していくかもしれないと思ったら、今を大切にしたいなと思えました。死や無の先に、自分の命を届ける希望があるとしたら、たとえ何もない凡庸な日々でも頑張っていけそうな気がしますからね。

こんな哲学的な内容を、唯一無二のエンターテインメントとして成立させている、このアイスストーリーという世界の凄みを改めて感じるとともに、なるほど初日に「何も言えねぇ」となるのは自然だなと思いました。3日経ってなおフワフワした所感の羅列にしかならないのですから、理解などはまだまだ先のこと。「ツアーを最後までご覧くださいね」というメッセージなのでしょう。それぐらい深みがあってこそ、何度も見守る楽しみも増すというもの。

このアイスストーリーの世界がもっともっと広がっていくように、祈りたいなと思いました。祈るだけでなく、多少どこかに響けばいいなと思って、命のこだまを発信していきたいなと思いました。「とにかくすごいのはわかるが」「何がすごいのか言葉にならない」「何も言えねぇ」からは多少前進できたかなと思いますが、まだドアに手が掛かっているのかもよくわからないので、引きつづき考えていきたいなと思います。「RE_PRAY」のときもツアー完走までどんどん考えは変わっていったので、今回もそんな感じで日々言うことが変わるかもしれませんが、「問いつづけよう」が本公演のメッセージでもあると思いますので、問いつづけていこうと思います!


問いが濃密過ぎて、またしてもアンコールの感想にたどりつきませんでした!