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この大きな仕事に「史上最高のショートプログラム」で応えた!

3月5日の19時55分、僕はスマホのアラームを止めてYouTubeを開きました。この日の20時に公開されると聞いていた映像で、きっと何かが起きると確信していたからです。その映像とは、米津玄師さんの新曲「BOW AND ARROW」のMVです。今話題沸騰中のアニメ「メダリスト」のオープニング曲となるべく、米津さん自身の熱望もあって誕生したこの楽曲は、「メダリスト」の世界観すなわちフィギュアスケートを主題に据えたものです。

「作品解釈」の名手として名高い米津さんが「メダリスト」を斟酌して生み出した楽曲は、そこに主人公・結束いのり(選手)と、もうひとりの主人公・明浦路司(コーチ)がいるかのごとく、作中の場面を想起させ、彼らの声をこだまさせ、聴く者の心を彼らに重ねさせるものです。原作あるいはアニメに触れていただきつつ、すでに「メダリスト」や米津さんのファンダムによって綴られている歌詞の解釈記事なども多数ありますのでそちらを見ていただくと、さらに深みを感じられるだろうと思います。

さて、その映像に僕が反応したのは何故かと言うと、このMVにおいて主題となるフィギュアスケートを演じたのが言わずと知れた五輪連覇のメダリスト・羽生結弦氏だったからです。羽生氏側のファンダムの視点からこの映像を見たとき、そこに表れていたのは「最大級の敬意と情熱」でした。羽生氏にとって米津さんとの仕事というのは、全身全霊で臨むべき大きな大きな仕事であることがありありとわかり、掛け値なしに史上最高のチカラを発揮したMVとなっていました。「羽生界隈騒然」と言ってもいい、そういうレベルの最大級の仕事ぶりでした。

↓すでにご覧になっているかもしれませんが、まずは映像をご覧ください!




五輪しかご覧になっていない方にはイメージがないかもしれませんが、羽生氏はいわゆるボカロPや歌い手といった文化への熱量が高く、米津さんに関してもハチ時代からのファンであると明かしています。自身の公演でもAdoさんの「阿修羅ちゃん」を演じたり、宮川大聖さんとは親友と言える間柄で楽曲「レゾン」で共演をしていたりもします。最近では「機動戦士ガンダムSEED」を題材にした演目や、ゲーム「ファイナルファンタジー」シリーズ、「ペルソナ3」「UNDERTALE」「STEINS;GATE」を題材とした演目も生み出すなど、要するにネット・アニメ・ゲーム界隈の人物なのです。

そして羽生氏は米津さんと同じく「作品解釈」の名手でもあります。もちろん本人が心から愛した作品だけを題材にしているから、という点はあるでしょうが、題材となった作品を知るほどに、いかにその世界が演目に投影され、その精神が詰め込まれているかを感じることになる、そういう作品作りをしています。その羽生氏が「メダリスト」という作品と「BOW AND ARROW」という楽曲に対して出した回答が下記の構成です。

↓この構成の意味するところについてご案内します!


羽生氏はこのMVのなかで3つのジャンプ、3つのスピン、そしてステップシークエンスを演じています。これは現行の競技会ルールにも合致する、ショートプログラムの構成です。しかも極めてハイレベルな、端的に言って「史上最高」クラスの構成です。まず冒頭に持ってきた4回転ルッツ(4Lz)ですが、これはショートプログラムに組み込めるジャンプとしては最高の基礎点を持つ技です(※ショートプログラムでは4回転アクセル、5回転ジャンプは認められない)。

羽生氏自身も4回転ルッツの使い手でありますが、2017年の大会中にこのジャンプの着氷で五輪出場すら失いかねないほどの大きな怪我を負うなどもしており、このジャンプは常に構成に組み込まれる類のものではありません(※怪我以降も2019年グランプリファイナルのフリー、2020年四大陸選手権のフリーなどで実施)。羽生氏のルッツの跳び方は本来の原理原則に則ったルッツであるため、基礎点の高さ相応に難度も身体への負担も高く、怪我のリスクを勘案すればほかのジャンプが優先されたのだろうと思います。

だがぁぁぁ!しかしいいい!!

その4回転ルッツを!!!!!!

このMVに投入したああああああああ!

しかも本物の美しいルッツで!!!

もうそれだけで羽生界隈的にはこのMVに羽生氏がどれだけ本気で、どれだけの敬意と情熱を持って応えているかが涙とともに熱い感情となってあふれてくるわけです。クララが立った日のハイジなんてもんじゃない!界隈としては「4回転ルッツまた見せてください」とは気軽に言えないようなリスクの大きな技を、羽生氏がこの大きな仕事のために再び宝箱から取り出したのですから。

一応フィギュアのジャンプを見分けるくらいはできるつもりの自分ですが、あまりのことに映像を見返しましたからね。そして着氷時にカット割りが入っているのを「ああああ!一連のカメラで追ってくれえええ!」と唸りましたから。あの軌道、あの回転なら映像通りに美しい4回転ルッツがとらえられているはずなのに!(※あとでワンカメ通しの映像くださいの意)

そしてその後の構成ですよ。MVの2分過ぎにある連続ジャンプの場面、これは4回転サルコウ+3回転トゥループ(4S+3T)のコンビネーションジャンプですが、これが2分過ぎに跳ばれる意味ですよ。フィギュアスケートでは演技後半のジャンプは基礎点が1.1倍になるボーナスがあります。それは、スタミナを消耗する演技後半に負担の大きなジャンプを跳ぶのはそれだけ難しいということ。直近の2024年世界選手権において、ショートプログラムで「演技後半の4回転+3回転コンビネーション」に成功した選手は1人しかおらず、挑んだ選手自体もごくわずか。世界トップの選手たちでもそうそう行なわない構成なのです。

しかも、トゥループではなくサルコウでの4回転コンビネーションを入れてきた。羽生氏自身は平昌五輪など数シーズンにおいてショートプログラムの演技後半に4回転+3回転のコンビネーションを入れる構成を演じており(平昌五輪ではトリプルアクセルと合わせて演技後半に2つのジャンプを置く構成)、今年行なわれた公演「Echoes of Life」でも平昌五輪と同じ構成で「バラード第1番」を演じるなどしていますが、それでもコンビネーションはひとつ基礎点が下がる4回転トゥループからのものでした。ショートプログラムの演技後半に4回転サルコウからのコンビネーションを入れるというのは、羽生氏としても挑戦的な構成です。

ちなみに、ショートプログラムの自己最高得点を記録した2020年四大陸選手権でのジャンプの構成は「4回転サルコウ、4回転トゥループ+3回転トゥループ、演技後半にトリプルアクセル」というもの。もし「BOW AND ARROW」でのジャンプ構成であったならば2020年四大陸選手権を基礎点で2.59点上回る計算となります。ほかの要素での基礎点の変動はありませんので、ルールや採点基準の変更は加味せず単純に比較するならば、2020年四大陸選手権と同じ程度の出来栄えの演技だった場合スコアは114.41点となり、これはショートプログラムでいまだ誰も到達したことのない114点台という史上最高得点になるのです。つまり、史上最高に届き得る構成をこのMVに捧げた、そういうことなのです。

MVを見る人や作る人がそんな構成を求めるはずもなく、極端な話「3回転ジャンプ」であっても十二分にカッコイイ映像になるはずです。しかし、あえて史上最高クラスの構成で応えた。それはとりもなおさず米津さんのMVだからでしょう。羽生結弦氏の全身全霊をたったひとりで引き出す米津さんに羨望するような嫉妬するような感謝するような、そんな気持ちでこの演技を見つめ、「ワンカメで通しの映像を出してくれ…」と僕は五体投地しましたよね…。

↓この全身全霊を引き出していただいてありがとうございます!



点数的な部分はもちろんですが、「作品解釈」の名手たる熱量を遺憾なく発揮されたこの演技。曲想からすれば米津さんは「行け」「跳べ」と後押しをする司の視点に主に立ち、そのぶん羽生氏はいのりの視点に立ちつつ、「メダリスト」の世界の伝説的金メダリスト・夜鷹純もその身に宿しているのだろうと思います。視点はいのり、新たに制作された衣装は夜鷹純、演技構成はハイブリッド、そんな感覚で僕は受け止めました。

顔が見えないポジション、暗闇のなかから動き出した羽生氏は、まだ何者でもなく、何者にもなれないと夢の手前でうなだれていた人が立ち上がる姿のよう。得意技であり、ファンも大好きなシットツイズル(中腰で回転するような動き)で動き出すと、「インパルス加速して」で夜鷹純も構成に組み込んでいた4回転ルッツをこの楽曲に捧げます。予兆なく「虚空を超えていく」トリプルアクセルは、ここも着氷でツイズルを入れ、さらに間髪入れずにスピンにつなげるあたりも、夜鷹純の構成(※コミックス10巻参照)を彷彿とさせるもの。

そんななかで迎える1番のサビの終わり「手を放す」では、司がいのりを送り出し、いのりが自ら輝くその瞬間を想起させるように、眩しい光を背負ってのフライングシットスピン(FSSp)を見せます。羽生氏ならデスドロップからのシットスピンであるとかバタフライからのキャメルスピンであるとかほかのフライングスピンでも構成できそうな局面ではありますが(※夜鷹純の構成はここでバタフライからのキャメルスピンを入れる)、あえてこの形のフライングシットスピンを入れたのは、この技でいのりが名港杯を制したからでしょう(※コミックス2巻参照)。

いのりと司が初めて勝利をつかんだ、あの名港杯の決め手となったフライングシットスピンを「メダリスト」と同じ形で跳び、いのりがそうしたのと同じようにブロークンレッグを入れてみせた。もちろん羽生氏はさらにポジション変化などを入れてレベル引き上げを行なうわけですが、スピン後のニースライドでの出も含めて、この技をこのMVに捧げる意味を感じたうえでの構成なわけです。この演技の振り付けは羽生氏本人によるものですが、選手自身が振り付けを行なうことはフィギュア界でも決して多くはありません(※大半は振付師やコーチが振り付ける)。羽生氏の界隈では羽生氏によるこういった純度の高い作品作りを「1公演3時間たっぷり、最初から最後まで全部羽生結弦」で見ておりまして、改めて大変贅沢で濃密な体験をしているなと震えるばかりです。

その後、MVでは米津さんが輝く水面と空の世界から、暗いリンクの上へとじょじょに浸食し始めます。弓を引き絞るようなポーズ、君の手を取り、矢となる君を世界に放つと、リンク上の羽生氏はショートプログラム後半での4回転サルコウ+3回転トゥループを決めてみせました。羽生氏としても異例と言える構成を見て、そうか、と気づきます。米津さんがいた水面と空の世界はいのりが初めて4回転サルコウを決めたときにいた、集中の世界、肌で感じた細かな世界、4回転を跳ぶすべての条件が揃うその一瞬を感じるためのあの世界だったのか(※コミックス7巻参照)。あのときいのりが「狙え」と引き絞った腕と、「粘れ」と締めつづけた身体と、最後に「開け」と着氷したあの瞬間を、ふたりはここで生み出したのだと。そして、いのりが作中最大最強のライバルである狼嵜光とついに相まみえ、「4回転サルコウ+2回転トゥループ」を繰り出してもなお及ばなかった全日本ノービス(※コミックス9巻参照)でのコンビネーションを現実の金メダリストとして超えてみせたのだと。

そのジャンプの大半が画面外見切れとなり、一瞬で通り過ぎてしまいますが、このコンビネーションをこの局面で跳ぶ選手は直近の世界選手権にもいません。いのりの大きな飛躍に自分自身も挑戦的な構成で応え、さらにその先の世界を示してみせた。いつか司といのりがたどり着くであろう狼嵜光と夜鷹純の先にある世界は、きっとこういう場所だろう、ここまで行くんだという、現実世界の金メダリストからのメッセージを感じるような大技でした。

米津さんとともに回転するように繰り出す足替えのキャメルスピン(CCSp)。これもドーナツのポジションに入ったところで映像を切り替えるという惜しげもない使い方です。史上最高になり得るショートプログラムの絶技の連続を、「秒」で使っていく、だからこその疾走感と躍動感がある。その後のステップシークエンス(StSq)では米津さんの周囲を巡るように、左右の足それぞれでターン・ステップを連続で繰り出す「クラスター」というステップの難しい要素を羽生氏は演じます。このステップシークエンスの終わりにかけて一瞬だけハイドロブレーディング(※2分35秒頃)が入っていたりするのも、惜しげなさすぎです。中盤のイナバウアー(※1分48秒頃)も「秒」でしたが、それぞれ10秒くらいたっぷり見せてもいいような見せ場も「秒」に凝縮するんですから。そりゃあ濃密にもなります。

そして最後の要素は羽生氏が得意とし、男子選手ではなかなか演じる者がいないビールマンスピン(片足を持って頭の上まで引き上げる)を含んだ、足替えのコンビネーションスピンです(CCoSp)。MVではスピンの序盤部分は映っていませんが、最初にキャメルスピンがあって(一瞬見切れる)、その後アップライトのビールマンスピンに移行し、足替えを経てシットスピンに移行するという流れです。フィギュア的な見せ方で言えば「最後にビールマンをやってワーッと観衆がわいて終わり」という組み方にしたくなるところですが、ここを最後にシットスピンで終える構成なのは、このスピンの出でそのままニースライドしていのりの決めポーズ、あるいは夜鷹純の動き出しのポーズのような形で演技を終えるためだろうと思います。

徹頭徹尾「メダリスト」の世界観に没入し、いのりと夜鷹純の演技を取り入れ、かつそれを現実世界で連覇を成し遂げた金メダリストとして超え、史上最高クラスの演技で彼らがやがてたどり着く未来を指し示す。もはやこれは「作品解釈」なんて次元ですらないのかもしれません。現実を拡張することで作品世界さえも広げてしまうような敬意と情熱の発露。ここまでやるからこそ、これほどの映像になるのでしょう。漫画の世界でのみ描かれるような演技をこのMVに捧げることができたのは本当に奇跡だなと思います。この「作品解釈」と「演技」を両立させられる人がたまたま日本にいて、その人がたまたま米津さんのファンで、その米津さんがたまたま「メダリスト」を好きで、「メダリスト」がアニメ化されて、持ち込みでオープニング曲を作って、ただその漫画が生まれる大前提の部分に日本のフィギュアスケートの輝かしい時代があって、その時代の中心に羽生結弦その人がいて、すべてが円環のようにつながっていたからこその奇跡。誰が発端なのかはもはやよくわかりませんが、とにかく全部がつながって良き日だなと思いました!

↓紅白のスタッフがこの曲にロックオンしているんじゃないかと思いました!

これ巨頭並び立つ図みたいに見えるかもしれませんが、たぶん違います!

画面左の人物は「どこまで近づいていいのか距離感」とか「嬉し過ぎて笑顔になり過ぎてはいけない…」とか「あーーーーいろいろ伝えたい!」とか思いながら触れない程度の微妙な距離にいる図だと思います!

そしてその思いの丈は後日コンサート会場にでっかいフラワースタンドとなって届きます!



素晴らしい映像が生まれたことに喜びつつ、いろいろな界隈をつなぐお手伝いに少しでもなっていたら嬉しいなと思います。繰り返しになりますが、僕からお伝えしたいこととしましては、これは紛れもない羽生結弦氏の全身全霊の演技であり、競技会においても史上最高になり得る演技だということです。その最大級の敬意と情熱をもって「羽生結弦さんってすっごい米津玄師さんが好きなんですね」とご笑納いただければ幸いです。羽生氏、アピール弱めの「伝わり待ち」のタイプですので!


難しいとは思いますが、いつか演目「BOW AND ARROW」を見たいですね!