スポーツ見るもの語る者〜フモフモコラム

テニス

悪夢の失格から歓喜の優勝へ至ったテニス全仏オープンでの件に思う、体力・技術・戦術以上に結果を変える人間性というチカラの巻。

08:00
即興力が問われる時代、人間性は最重要指標のひとつ!

最近ずっとAIの恐怖に震えています。AIに取って代わられるという恐怖、早くAIがコイツを取って代わってくれないかなぁと周囲から思われているんじゃないかという恐怖。自分も野球の審判とかに向かって「ストライクとボールの判定はAIでいいんじゃないですかね?」とか言っている手前、甘んじて受け入れざるを得ないのですが、「AIに比べて自分は何と無能な…」と、これまで以上の無能感に苛まれています。

そして、人間対AIという観点だけでなく、人間対人間の観点でもAIの存在によって取り残されていく未来が確実に迫ってきているなと震えます。最近聞いてビックリした言葉に「SNSなんだからちゃんと盛れ」という言葉がありました。意味としては、SNSに載せる写真はしっかりと加工をして、表現を整えて、よりよく見える状態で掲出するのが当然のマナーである…という感じの意味です。僕はその言葉を聞いて、まさに落雷を受けたような気持ちになりました。

SNSで加工をバリバリ効かせた写真や動画を載せている人を見たとき、僕はこれまでずっと「ウソつきの人」だと思ってきたのです。本当の自分を隠して、自分をよく見せようとウソをついている不誠実な人なのだと。あの「一発録りです」みたいな触れ込みの歌ってみた動画に対して、「あのライブ映像に比べてめちゃウマですね」「あの映像は一発撮りだとしてもあの音声はバリバリ直してますよね」「あの歌は100年かけても生では録れないと思う」などと否定的な目で見る感じで、あらゆる「盛ったもの」に対してウソつきだなぁと思いながら、うっかり指摘してしまわないように心からそっと逃がしてきたのです。

しかし、時代はもうそういう段階ではなかった。

ファッションやメイクが当たり前のものとなり、むしろそうした要素をTPOに合わせて整えるのが社会規範となった現代。それがどうして「SNS」という公共空間だけはありのままでいられるでしょうか。ファッションやメイクは当然のこととして整えるなかで、SNSというデジタル空間ならではの追加要素である「加工」は施さないというのは、むしろマナー違反なのではないかと。自分が思っていたことと真逆のほうに世界の正しさは向かっていっているのではないかと気づいたわけです。

確かに、少しでも自分の印象を良くし、自分の思いを正しく伝えようとする努力はSNSのなかでも行なわれるべきであり、それが加工によって満たされるのであるなら積極的にやるべきかもしれないなと思います。「あなたそんな感じじゃないですよね」とツッコミながらありのままの姿を求めるのは、ビジネスの現場において「私のありのままの普段着であるTシャツとジーパンです」とやってくる態度の悪そうな企業家モンを支持するような、時代と逆行する態度なのではないかと思い至ったわけです。騙すためのウソではなく、正しく伝えるための身だしなみがデジタル空間にもある、そんな気づきです。

今はまだAIは「一部の技術者」だけが使うツールといった雰囲気もありますが、早晩そうした技術が普及していったとき、自分自身もまたAIをしっかりと使いこなしていかないと、人間同士のなかでも取り残されていくんだなと思うのです。写真や歌声だけでなく、こうしたテキストだってありのままの不適切な発言が残らないように、身だしなみとしてAIチェックをするようになるのでしょう。僕らが今「何でも紙を要求するスマホ持ってないオジサン」を見るような目で、「何でもありのままで出してくるAI使えないオジサン」が冷ややかに見られる世界が近づいてきている。そんなことを思って震えるのです。

↓確かに、しっかり身だしなみを整えてもらったほうが楽しくなりますよね!

SNSなんだから、ちょっとモヤ出すくらいするのがマナー!

「自分が見せたいもの」と「みんなが見たいもの」が一致するように努力するのは、むしろ誠実!



という新たなAI未来世界が訪れたとき、人間に求められるのは即興力だろうと思います。将棋などを見ていても思いますが、AIが示す手が実際に強くて人間を凌駕するものだとしても、「もうAIのほうが強いんで解散!」とはなりません。むしろ、強いAIに迫るような優れた手筋をその場の即興で紡いでいく人間の凄みが際立ち、それが新たなエンターテインメントとなっています。「AIみたいな手が打てるなんてすごい!」と見る側のレベルもアップしていくのです。音楽だって完璧なMVで聴けば済むものではなく、会場の雰囲気に合わせて感情をこめたりアレンジしたりする即興性によってライブは盛り上がっていきます。その場の瞬間瞬間で何ができるのか。その判断と対応を即興で人間がやることが、とても価値の高い、希少な行為になっていくのだろうと思うのです。「AIを駆使してギリギリまでチューンした以上のものが、即興で紡がれていく」その鮮やかさへの「人間ってやっぱりすごいなぁ」という感動とともに。

スポーツなどもその即興の最たるものです。機械でやればもっとすごいことができるのだとしても、あえて人間がやる。上手くいったところの映像だけをつなげばもっと見事な演技に仕上がるのだとしても、あえてその場で即興でやる。その場の即興で紡がれる一度きりのプレーだからこそ生み出せる感動がありますし、その一度きりで消えゆくその場限りのものだからこその尊さがあります。その即興のために、何度か撮り直してもいいならもう十分に仕上がっている演技を100万回も練習したり、どんな不測の事態にも対応できるように技術を磨いたりしているのだと思うと、誰かが人生を捧げた没頭の上澄みをいただくような、とても贅沢なエンターテインメントなのだなと改めて思うわけです。

だからこそ、今まで以上に人間性というものが問われるようになると思います。

あらゆる方向からカメラが映像を残し、それが即座に分析されるようになっていくなかで、単に何かすごいことをできるとか勝った負けたということではなく、その瞬間瞬間で人間が何をしたか、何を示したか、そういうところがより細かく注目されるようになっていくのだろうと思うのです。勝敗や記録といった結果以上に、その結果に迫る過程でどんな一瞬の即興というものが生まれたのか、それによって結果自体の価値さえも変わってしまうようなことが起きていくのだろうと思います。表情ひとつにしても、舌打ちしながらのイヤーな感じの勝利なのか、苦境をも楽しむような爽やかな態度での勝利なのか、それによって生み出される価値や感動が変わるし、ときに敗北にも等しい勝利が生まれたりするのだろうと。

先日来世界で話題となっているテニス全仏オープンでの加藤未唯さんの失格の件もそうです。あの試合、加藤さんは失格と判定され、対戦相手のペアはそれによって勝利を手にしたわけですが、本当に残ったものはまったく逆の価値を持つものでした。加藤さんの「もしかしたら、やや強かったかもしれない返球」は、失格になるような行為とは到底思えないものでしたが、結果としてボールパーソンの少女に当たってしまいました。その不幸を加藤さんは「苛立ち」ではなく「申し訳なさ」で受け止め、不可解な判定ながらも失格という処分に従って、その場を去りました。判定を不服として荒れ狂う道や、何かに八つ当たりをするような道だってあったかもしれないシチュエーションでしたが、その態度は真摯なものでした。その後の、各方面へお詫びをしつつも、しっかりと自分の主張は表明するという行動も含めて誠実でした。

一方で対戦相手はそういう不幸な状況をむしろ「幸運」と受け止めたか、審判に対して何らかのアピールを行ない、ベンチでは笑顔を見せるような一幕が映像で捉えられていました。選手にとって試合をすることは何よりも大切なことであるのは同じ選手として理解が及ぶはずなのに、相手の不幸を思いやる気持ちだけではない部分が垣間見えてしまった。結果的にそのペアは、その試合での勝利こそ手にしたものの、大きな批判の対象となり、そうした批判的な空気も影響したか、つづく試合では敗れてしまいました。悪夢の失格から一転、加藤さんが混合ダブルスでは優勝したのとはまさに対照的で、敗者だった勝者と勝者だった敗者へとクッキリと明暗が分かれました。





その明暗を分けたものがあるとすれば「人間性」だろうと僕は思います。自分が生み出した不幸をどう受け止めるか、相手が生み出した不幸をどう受け止めるか。その場の即興での対応を左右した「人間性」というものが、体力・技術・戦術以上にこの試合の結果の価値を変えました。そして同じようなシチュエーションはこうしたアクシデントに限らず、試合のなかで数限りなく訪れます。試合のなかではいいプレーもあれば、悪いプレーもあります。そのひとつひとつに即興でどう向き合うか、それによって世界は即座に変わっていく…そういう時代なのだろうと思うのです。これまでもそうだったのかもしれませんが、これまで以上の精度と速度でそうなっていくのだろうと。プレーに夢中になっている合間に滲む抑えの効かない感情が、拡大され拡散され大きな影響を及ぼすようになった現代社会において、それを制御する「人間性」は即興を生業とする者すべてに求められる重要な能力となるだろうと。最高に興奮する勝利の瞬間だからこそ、我を忘れる瞬間だからこそ、我を忘れても美しくいられることが求められるだろうと思うのです。

昨今は「すごい選手は人間性も優れている」ような気がしますが、偶然ではないだろうと僕は思います。即興を生業とする者はすべて、一瞬一瞬を問われているし、一瞬一瞬で世界が変化しているのです。すごい選手でいるために必要な支援やサポートや応援も、一瞬一瞬で変化しています。世界の「見る」チカラが増したぶん、より細かく、より素早く、世界が変化しているのです。たったひとつの舌打ち、たったひとつの言葉遣い、たったひとつの表情で、すべてが様変わりしてしまうくらいに。それを良い方向に導けるものがあるとすれば、「人間性」しかないのです。練習だけでは身につかない、人生すべてで培うチカラの重要性がより増しているのだと。

「結果さえ出していればいいじゃないか」と言ってあげたい気持ちもゼロではないのですが、そうは思わない人もたくさんいて、そういう人たちの気持ちも影響するのが今のSNSだったり社会です。そこで結果を出していくために、「常に半分くらいの人から嫌われている」なんて環境ではどれだけ体力や技術があってもままならないというもの。体力・技術・戦術があればある程度は緩和されるとしても、高い人間性というものを育んでいかないと、より一瞬一瞬の即興の価値が高まる未来においては、上手く生き抜いていけないだろうと思うのです。

僕もいちプレイヤーとして自分を見たとき、メールやテキストだと何とかオブラートでグルグル巻きにして底意地の悪さや短気さを隠すこともできるのですが(※隠せてない説もあるが)、リアルタイムの会議やプレゼンテーションになると途端にそういったものが露見してしまう日々です。普段から思っていることと、普段の暮らしぶりが、やはり即興の場面では出てしまうなぁと反省するばかりです。人間性を育んで「会議でキレる」「慣れると舐める」「ナチュラルに失礼」を直していかないと、いつも穏やかなAIには太刀打ちできないなと思います。ホント、全力で運動したあとに意地悪な話とか振られても舌打ちしない選手たちとか、その時点で相当な偉人だなと思いますからね!

↓どんな世界で戦うかの影響はほんの少しだとしても、そのほんの少しで未来は変わっていく、はず!
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人間性が伴わないままトップに行けるような時代ではない、そう思います!

素晴らしいパラアスリートたちに心震わせつつ、そのなかでも国枝慎吾さんが「世界のクニエダ」である理由を考えるの巻。

12:00
舞台があれば、人の輝きは映える!

東京パラリンピックも本日が閉幕の日。しかし、この最終盤にかけても盛り上がりは増すばかりです。この週末も日本勢の奮闘はつづき、次々に朗報が飛び込んできています。東京五輪では苦しい戦いがつづいたバドミントンからは女子シングルスWH1クラスで里見紗李奈さんが金メダルを獲得したほか、女子シングルスSU5クラスでの鈴木亜弥子さんの銀など複数メダルを獲得。「東京2020」という全体で見れば明暗反転するようなバドミントンの大活躍となりました。

THEパラスポーツといった存在感を示すボッチャでは、男女共通チームの銅、混合ペアでの銀とチームの団結を示すようなメダル獲得がつづきました。今大会では杉村英孝さんが個人でも金を獲得していますが、この日も「さすが金メダリストだ」と唸るような神投球を連発。特に男女共通チーム3位決定戦での最後の1球は、至高の1球だったなと震えるばかりの思いでした。

この試合、日本は最終エンド3球を残して勝ちを確定させていました。すでにそのエンドで日本が得点を取って勝利することは確実であり、勝負は決していました。単に時間切れを待ってもいいですし、残ったボールが悪影響を及ばさないように足元に投げ捨ててもいい。要するに、何もしなくてもいい場面でした。しかし、日本は残された3球に万感の想いを込めました。

選手交代でこの試合には登場していなかったリオ団体銀メダルメンバー・藤井友里子さんを送り込むと、コート中央にあるクロスを目指して想いを込めた2投。そして最後の1球を杉村さんが握ると、クロスにビタ付けする神投球。スコアに影響を及ぼす投球ではありませんが(※スコアに影響を及ぼさないように投げている)、だからこそ凄味を覚える一投でした。

直前の準決勝で敗れ、目標の金メダルがなくなったあとでも心を切らさず、逆に銅メダルを確実としたあとも心を切らさず、誠実に投げ抜いたことがまざまざと伝わってくる一投。この姿勢は、パラスポーツに限らず、すべてのアスリート、そしてすべての何かに取り組む人が、こうあらねばと思うような姿でした。スコアに影響しない最後の1球を投げ終えたあとの杉村さんのガッツポーズと、「こりゃすげぇな」と呆けるような笑顔を見せる広瀬隆喜さん。心の芯にビタビタにきました!

↓これができる人は世のなかにそう多くはないはずです!

どんな状況でも心を切らさず、やり抜くこと!


そして、この日を締めくくったのは車いすテニス男子シングルスの国枝慎吾さん。世界のクニエダは決勝でも強かった。ダブルスの3位決定戦においてペアとしては敗れたオランダのエフベリンクを相手に6-1、6-2のストレート勝ち。準々決勝ではフランスのウデ、準決勝ではイギリスのリードと、強豪との対戦がつづいた日程を最後まで「1セットも落とさずに」勝ち抜きました。

日本のクニエダが東京で金を獲る。この大会の招致が決まったときから、そうなるだろう、そうなってほしいと日本の多くの人が思っただろう結果のひとつですが、それを現実に成し遂げました。リオ大会では故障もあって金メダルを逃し、苦しい試合がつづく時期もありました。東京は厳しいのではないかと不安視する声もありました。それでも東京でしっかりと金に返り咲いた。これが「世界のクニエダ」だなと思います。



この日も国枝さんの車いすさばきは冴え渡ります。世界1位なのですから全面において強いのは当たり前ですが、そのなかでもスピードというのは圧倒的です。コートを広く素早く動き回り、2バウンドまでが許される車いすテニスでありながら1バウンドでテンポよく返していく国枝さんのテニス。展開を巧みに見極め、なるべく動かずに返していく場面が多いぶん、ここぞというときの「一歩目」の速さは際立ちます。

それに対抗するかのように、相手のエフベリンクもムッキムキの上体から車いすテニスとは思えない160キロ、170キロといったパワーサーブを繰り出してきますが、国枝さんがチカラ負けせずに打ち返すと、その高速の返球にエフベリンク自身が苦しんでいるようなところさえ垣間見えます。これが「やることなすこと」というヤツでしょうか。打つ手ナシの完敗だったと認めるほかないでしょう。

テニスと言えばジョコビッチやフェデラーのような超人がいて「こりゃ勝てんわ」と何度も唸らされてきたスポーツですが、クニエダもまたそういう存在なのだなと思います。速くて、上手くて、心も強い。真偽不明の噂話として、「日本からは何故世界的な選手が出ないのか」と問うた記者に対して、フェデラーが「何を言っている。日本にはシンゴ・クニエダがいるじゃないか」と答えたなんて話をよく聞きますが、それが本当の話でも何らおかしくはないなと思います。この種目におけるクニエダはそういう格の伝説的選手なのですから。

それだけに勝利の瞬間、国枝さんが見せた涙には昂ぶるものがありました。世界のクニエダが、この伝説的選手が、勝った瞬間に涙するほどの舞台がここにあったのだと。それを東京に迎えることができたのだと。改めて誇らしくなるような思いです。できてよかった、そう思います。日本の選手だからということだけではなく、世界を代表するパラアスリートのひとりが泣いてくれた。ありがたい限りです!

↓世界のクニエダ、涙の金メダル!


↓NHKによるハイライト動画はコチラです!


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「世界のクニエダ」の存在、そこにはこれから変えていくべき明るい未来というものが見えています。この大会には数多くの素晴らしいアスリートが登場しています。日本だけでなく世界からも。そのなかで、国枝さんを「世界の」にしているものは何だろうかと考えると、それはテニス界の仕組みだろうと思います。

テニス界では車いすテニスも「テニス」の一部分と認識し、世界最高峰の大会であるグランドスラムにおいても車いすテニス部門が実施されています。車いすではない男女シングルスが最大の注目を集めることは確かですが、同じ座組みのなかに車いすテニスもしっかりと組み込まれています。それにより国枝さんはグランドスラムをいくつ制したという表現で戦歴を語ることができますし、フェデラーからコメントが出たとしても何ら不思議はないだけの足跡を残してきています。何ならホームパーティーしていたって不思議はありません。

五輪・パラリンピックにおいても、五輪と同じ座組みのもとでパラリンピックが行なわれることで、五輪に比肩する注目が集まり、そのプレーや振る舞いが広く知られることになります。ひとりひとりのアスリートが積み上げていることは変わらず、その技能は変わらなかったとしても、座組みによって世間は変わっていきます。舞台さえあればその輝きが世界まで届く人が、世のなかにはたくさんいるのです。

それを日常においてやりつづけているテニスと、4年に一度のこの機会を待っている競技と、「世界の」を分ける差はそこにあるのだと思います。そういう意味では、今後世のなかが変わっていくなかで新しい座組みが生まれていけば、「世界の」はもっともっと増えるでしょう。「世界のスギムラ」「世界のキムラ」「世界のサトウ」といった形で、その名が轟くこともあるでしょう。面白くなることさえあれ、それで困ることは何もありません。いいことしかないのならやったほうがいい、そう思います。

とかく今大会はさまざまな意見がありました。「パラリンピックだけでも中止を」なんて意見も見ました。パラリンピックが始まりもしないうちに「今大会は失敗だった」と総括する輩もいました。IOCのバッハ会長がパラリンピックのために来日したら「来なくていいでしょ」なんて言われたりもしました。そういうところからなのかなと思います。完全に一緒のものではないけれど、座組みとしては一体のもの。違うところもあるけれど、重なるところもあるもの。「いろいろある」のひとつの形となれば、「世界の」という広がりが生まれるように思います。

「世界のクニエダ」はそうした未来の希望であり、予感であると思います。

僕らが抱く敬意は、その選手が車いすに乗っているからといって減ったりはしないのであると。

その人を知り、その人の活躍を取り込む座組みがあれば、ちゃんと「世界の」になるのだと。

それは、面白くなりこそすれ、それで困ることは何もない未来です!

↓国際テニス連盟公式アカウントのヘッダーも国枝さんに変わりました!

テニスの大きな大会の王者ですからね!

この日のヘッダーは、そりゃあクニエダでしょう!



「この日はクニエダだろうな」と思えるくらいになっているのがすごい!

大坂なおみさんが全仏オープン棄権に至った「会見でのメンタルヘルス」の問題は、ハラスメントの一種として解決されるべきである件。

08:00
アスリートが「先」、メディアは「後」です!

アスリートとメディアとの関係というのは僕らファンにとっても重大な関心事です。先日、大坂なおみさんが全仏オープンでぶち上げた会見拒否の件は、多くのアスリートを巻き込んだ議論となった果てに、ついには大坂さんの大会棄権という極めて残念な形に至りました。1日未明に更新された大坂さんのツイッターでは大会棄権を表明するとともに、2018年頃からの心労とうつ症状に触れるような文言も見られます。改めてこの「長く存在する問題」について自分でも考えましたので、記録のために書き残しておきたいと思います。




まず、総論としては「アスリートにはメディアへの対応も自分の活動の一端として、全力で取り組んで欲しい」というのが僕の意見です。スポーツとメディアは持ちつ持たれつの運命共同体です。ライブエンターテインメントであるスポーツは、誰かがカメラを担いで中継をし、誰かが速報記事を書いて配信することによって、街の片隅で行なわれる遊戯から、世界に広まるエンターテインメントへとなります。

次の一瞬に奇跡が起きるのか絶望が生まれるのか、その日その時その瞬間にしかない答えを見守ることの喜びは、本来スタジアムのごく限られた人だけが楽しめるものですが、メディアの存在によって世界中のあらゆるところに喜びを伝えることができます。その結果として、アスリートの活動は数万人規模に留まらず、世界の数十億人という人に伝わり、勇気や感動が広がり、賛同や共感を生み、富や名声が得られます。

そして、同時に多くのフォロワーが生まれます。テニスの大会であれば、自分もテニスをやりたいと思う子ども、子どもにテニスをやらせたいと思う親、テニスを応援したいと思う人たち、テニスを支えたいと思う企業が生まれ、それらの存在が競技の発展につながります。たとえば、街にテニスコートができたりします。自分自身がそういった「環境」に支えられて今その場にいることは忘れてはいけない現実です。自分がテニスを始めるより前に、テニスコートを作ってくれた誰かがいる。その環境から受け取ったものを「お返し」するのは成功した者のつとめです。

大会の賞金、スポンサーからの活動費、競技の人気、名誉や敬意、すべてが世界でどれだけの人に見られたかに左右されています。そして、その視線の大部分はトップアスリートに注がれます。相撲で言えば横綱です。横綱には場所を守るつとめがあります。横綱ひとりが若い衆何百人を支えるのです。相撲もテニスも「1人」ではできないものですから、自分だけのことを考えてはいけないのです。強い者にはそれだけ大きな責任が生まれるのは、スポーツに限らずどの世界でも一緒です。自分が打ち負かした相手にもそれなりの幸せが訪れるように、競技全体を牽引するのは強者の責務です。その場に留まりながら責任だけを拒むのは、賛同されず、敬意を生まない行為だと僕は思います。


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とは言え、どんな要求にも従わなければいけないというのも違うでしょう。メディアの側にも問題があります。自分たちが拡散してやったことでこんなに富が生まれているじゃないかという驕りがあります。自分たちの求めに応じるのは当然であると考えているフシがあります。その場その場でせわしなく、自分たちが欲しい「素材」だけを奪い取っていくような身勝手さがあります。数十年の努力の果てに実った果実の、甘いところを一口だけかじって捨てるような、傲慢さがあります。

答えづらいことを聞く、都合の悪いことを聞くのはメディアのつとめだとしても、工夫もなく何度も同じことを聞いたり、さっき聞いたばかりのことを聞いたり、無関係の話を持ち出したりするのはメディア側の「力量不足」だろうと思います。ましてや「自分たちが聞いた自分たちに向けてのコメント」が欲しいがために、時間を無駄に消費するような質問をするのは、世界の誰も得をしない行為です。それがやりたいのなら、せめて大会を主催する側にまわって役得としての代表質問を握るべき。主催者であるならば、存分にお話もできるでしょう。

奇跡のようなプレーを魅せたアスリートに相対するなら、メディア側にも奇跡のようなスーパープレーが求められます。上手いことを聞くなぁ、新たな視点を生むなぁというプレーをメディアの側も披露してこそ、対等な関係です。そうした質問は必ずアスリートにとってもプラスになります。自分の課題に向き合い、それを言葉として整理することで、自分自身でも意識していなかった心の形が明らかになることがあります。記事となったものを読み、本意が上手くまとめられていたり、あるいは「そうではないな」と気づくことで、考えは整理されていきます。

アスリートは「テニス」や「相撲」や「野球」の専門家であって、必ずしも言葉や思索に長けているとは限りません。そうした人の言葉を一種の義務として求める以上、「会見に応じることで自分の感情を整理することができ、記事を読むことで自分の考えを深めることができる」と思ってもらえるくらいであってほしいし、そういう時間であるならば無下に拒絶されることもないでしょう。

乱暴に言葉をぶつけ、わざと怒りを引き出すように仕向け、失言を切り取ろうとする悪意を、アスリート全員に「上手くかわす」「巧みにいなす」ことを期待するのは間違っています。そういうことも上手くこなせるように慣れていくほうがいいですし、上手くできるほうがより素晴らしいとは思いますが、「できなければいけない」とするのは行き過ぎです。アスリートはコートやグラウンドの上でボールやライバルを相手に戦うことに人生を懸けているのですから、それ以外の場面では周囲がサポートをしてあげるべき。甘い果実をかじりに来たのか、その果実の素晴らしさを世界に広めるために来たのか、心持ちが違えば態度も変わるはずです。それが「持ちつ持たれつ」です。


どれだけメディアのチカラや貢献があったとしても、最初の最初の原初の「光」を生み出しているのはアスリートです。たとえ世界の誰が見ていなくてもラケットでボールを打ち始めた人がいて、その対戦のなかで際だって上手い名人が現われ、その人が自分の技能を磨き、他人を魅了するまでに輝かなかったなら、そこに原初の「光」がなかったのなら、どれだけ世界に広めても何も起きません。何の見返りがなくても光を放ったアスリートがいてこそ、この価値は世界に広がるものになるのです。アスリートが先、メディアが後、この順番は永久不変です。

だから、四大大会主催者側が共同の公式声明で「今後も記者会見の拒否を継続する場合は全仏オープンの失格処分や、将来的なグランドスラムの出場停止など、より厳しい制裁を受けることになる」と、一種の脅しをかけた行為については誤りです。「後」であるメディアを上において、「先」であるアスリートを排除するのは明確な間違いです。メディア対応を拒否すれば、当然のこととして業界内での敬意が失われ、スポンサーからの支援も薄くなるかもしれませんが、つとめを果たさなかったぶんの帳尻合わせはそこまでで終わりです。突き詰めれば「金」の問題であることの埋め合わせは、「金」までで終わりです。罰金があるなら払えばいい。スポンサーが離れるならば仕方ない。ただ、「光」を奪われたり、損ねたりしてはいけない。

大会主催者は原初の「光」を放つ強いチカラを持つ人を大事にしないで、世界にどんな価値を広めようと言うのでしょうか。その「光」が失われるように仕向けてはいなかったか、大坂さんの大会棄権という残念な決着について、今一度自分たちの姿勢を見つめ直してほしいと思います。試合で放つ「光」を超える会見などあるはずがないのです。一番大事な価値を蔑ろにするのは間違いです。脅しだとしても、してはいけない行為です。アスリートが「先」、メディアが「後」、守る順番を間違えてはいけないと思います。





「持ちつ持たれつ」のアスリートとメディアが良好で発展的な関係を築くのは、ファンにとっても大事なことです。今はSNSなどもあり、アスリートが心情を自ら発信することも増えましたが、それで十分なわけではありません。もっと聞きたいことや、教えて欲しいこと、伝わったら大きな価値をもたらすことがあるのに、それを「アスリート本人のやる気」のみに委ねるのは不確実です。

美しく輝く瞬間を撮影するプロがいて(自分でスマホ握らなくてもOK!)、言葉を記録するプロがいて(自分でキーボード打たなくてもOK!)、それを世界に伝える媒体がある(ありとあらゆる言語でSNSやらなくてもOK!)。そういう人たちがいれば、自分は「光」を放つプレーに集中できます。マッサージや食事の準備や用具の手入れをサポートメンバーに任せるのと同様に、メディアを活用することには価値があります。

ちゃんとメディアを活用してほしいし、だからこそメディアも旧来のやり方に固執せず、これまで幾多のアスリートが陥ってきたような「メディア対応が不得手であることによって、大切な光が失われる」という悲劇は繰り返さないでほしいと思います。「金を払ってるんだから、何を聞いてもいいんだ」ではパワハラと同じです。それを解決するにはパワハラと同じように、「透明性」と「第三者の介在」と「同意」の徹底が必要だと思います。

ひとつに、透明性を担保するため、選手に義務として課す公式会見は主催者によって完全生中継され(※広報担当がスマホでYouTubeに流すだけでもよい)、発言の一方的な切り取りなどを防ぐこと。ひとつに、選手の傍らには第三者としての代理人が介在し、無関係な質問や挑発を選手に替わって排除すること。ひとつに、応じる義務はあっても答える義務はないことを再認識し、お答えするかしないかの同意を都度確認しながら応答を進めること。

「そんなこと言ってない」を検証する仕組み。

「その質問は関係ない」を指摘する誰か。

「今はお答えできません」を受け入れる文化。

この3点の徹底で、アスリートが背負うメンタルヘルスの問題を改善してほしい、そう思います。こうした仕組みを徹底することで、より価値のある応答が生まれるものと僕は思います。無闇に挑発的で怒りからくる失言を狙うようなものでもなく、ただ聞いてもスルーされるような安直なものでもなく、アスリート自身が自問自答してしまうような問いを投げかける。そういうことが成熟していったら、会見が苦手なアスリートもストレスに思わず、会見が得意なアスリートはより自分の価値を高められるような世界も生まれるのではないでしょうか。

持ちつ持たれつ、です。

今、大坂なおみさんに批判的な向きが生まれているのなら、それを解きほぐすようなメディアがあってもいいと思います。拒絶されたことに憤って責め立てるのではなく、不十分な伝わり方をしていると思われる真意を解きほぐし、それを広めることにこそメディアの矜持があるはずです。「自分で言うより、言ってもらったほうがええわぁ〜」って思われないで、伝えることのプロがどうしましょうや。





テニスが上手い人を大事にしないで、どうして明るい未来があるというのか!

コート外のいろいろが持ち込まれない「スポーツ」の素晴らしさを感じさせてくれた大坂なおみさん三度目のグランドスラム制覇の巻。

12:30
大坂なおみさん、いろいろなものに勝って全米制覇!

三度目のグランドスラム、またも大坂なおみさんがやってくれました。一時の後退を乗り越えて再び世界の頂点へ立つ全米オープンの制覇は、過去二度のグランドスラム優勝とはまた意味合いが違うものでした。新鋭のチャレンジャーが勢いに乗って頂点に立つのとは違う、始まる前から強者と認められた者がその通りの戦いで立つ頂点というのは、一段上の重みがあります。「優勝を狙い、ライバルにつけ狙われて、なお勝った」という重みが。

決勝の相手はこちらも元“女王”のビクトリア・アザレンカ。母となり、人生を積み上げて再び頂点へ戻ろうとする選手です。どちらが勝っても「復権」と呼べる三度目のグランドスラム制覇。ともに好調で迎える一戦は、今大会の前哨戦であったウエスタン&サザンオープンでの大坂さん不戦敗をやり直す「現時点最強」を決めるにふさわしい一戦となりました。できることなら両方を勝たせてあげたいようなシチュエーションですが、勝つのはひとりだけ。その厳しさもまたいい。

無観客で行なわれている全米オープン、アーサー・アッシュスタジアムにともに黒いマスク姿の大坂さんとアザレンカが入ってきます。観客はいないけれども再びこの舞台に帰ってこられたという喜びをマイクを通じて世界に語りかける両者。むしろこの無観客が集中力を高めてくれそうでさえあります。

立ち上がり、第1セット第1ゲームは大坂さんがいきなりサービスゲームを落としての始まりとなります。大坂さんは強いサーブから振り回していく押し気味のプレーではあるものの、サーブの率は低く、ダブルフォルトなどもあって詰め切れず。つづく第2ゲームも大坂さんはリターンに苦しみ、ラブゲームで落とします。苦しい第1セットとなりました。

無観客のコートに響くアザレンカのフォゥーという声と、大坂さんのボールがネットにかかるズシャッという音。とかく音が注目される無観客試合ですが、音でも大坂さんは押されていきます。第3ゲームこそ何とかキープするものの、アザレンカの懐の深い強打で左右に動かされ、第5ゲーム・第7ゲームとこのセットだけで3つのブレークを許します。何とゲームカウント1-6で第1セットを落とすことに。

↓大坂さんは立ち上がり固い感じ!それでも苛立つ様子はなく第2セットへ!



タオルを被ってベンチに座る大坂さん。落としたものは仕方ないとして切り替えていけるかどうか。大事な第2セット第1ゲームはアザレンカのサービスから。ネットにかかったアザレンカのボールが大坂さんのコートに落ちるなど、運もアザレンカに味方しています。第1ゲームをアザレンカがキープすると、第2ゲームで大坂さんはまたもブレークを許してこのセットも苦しい。スタンドで見守るコーチも目を閉じて堪えるような表情です。

ただ、これでアザレンカも「よし」となってしまったたでしょうか。試合の主導権をつかんだことで第2セット頭から垣間見えていた固さがじょじょに表に出てきます。アザレンカサーブの第3ゲーム、デュースまでもつれたところからこの試合抜群の決定率を誇っていたアザレンカのファーストサーブが入らず、セカンドサーブからの攻防を大坂さんが制してブレークバック。この試合で初めて大坂さんがブレークしました。

ひとつのポイント、ひとつのゲームで流れが変わるから個人競技というのは面白いもの。常に戦うのは自分自身であるぶん、立ち直るのも崩れるのもまた自分自身が要因です。ブレークバックでキッカケをつかんだ大坂さんは苦しんでいたサーブがズバズバと決まり始めて本来のプレーを取り戻していきます。第4から第6ゲームは互いにキープしあう展開ですが、大坂さんサービスの第6ゲームはサービスエース3本を含むラブゲームでの奪取。こうなると「キープはできる」という余裕が出てきます。

そして、この試合全体の趨勢を決定づけた第7ゲームへ。アザレンカがダブルフォルトで最初のポイントを落とすと、アウト、アウト、アウトとエラー連発でこのゲームを落とします。大坂さんが「奪った」というよりはアザレンカが「落とした」という格好のゲーム。大坂さんはもはやベンチでタオルを被る姿はなく、スタンドに目をやってうなずくようなしぐさ。無観客ではありながら「あ、大坂さんの試合になった」と空気からも伝わってくるかのようです。

大坂さんは第7ゲームでさらにブレークすると、第9ゲームは長いデュースを制して奪取。デュースの応酬のなかでアザレンカの厳しいサーブをズバッと返してリターンエースとした際には、ここまでで一番の「カモーン!」が飛び出しました。音の主導権も奪い返して、勝負はファイナルセットへ!

↓完全に大坂さんの試合になってきた!



そしてファイナルセット。第1ゲームは大坂さんがドッシリと構え、アザレンカを左右に動かしまくる「コートの支配者」といった様相でサービスゲームをキープ。キープ、キープで互いに譲らず第3ゲームまで進みますが、大坂さんのほうがサービスゲームでの優位を見せています。サクッとキープする大坂さんと、苦労して苦労してキープするアザレンカとでは明らかに圧力が違います。今にも崩れそうな均衡です。

第3セット第4ゲーム、アザレンカのサービスゲームを大坂さんは積極的に前に出るプレーで攻めのブレーク。つづく第5ゲームは3ポイントを落とした状態から大坂さんが耐え凌いでキープ。絶好のブレークチャンスを逃したアザレンカは天を見上げます。やや勝負が見えてきたか。終盤はブレーク合戦となるも、尻上がりに調子を上げる大坂さんは、要所でサーブが決まり、相手の厳しい返球をさらに厳しい場所へ返していく女王のプレー。ポイントを落としても、笑顔でそれをリセットする落ち着きも備えています。

ゲームカウント5-3と大坂さんリードで迎えた第3セット第9ゲーム。最後は長いラリーを制して、大坂なおみさん二度目の全米、そして三度目のグランドスラム制覇。決勝までくれば必ず勝つ、という「決勝3連勝」の勝負強さでいろんなものを全部吹き飛ばしてみせました。いろいろなものとの長い戦いを制した疲労感と安堵を見せるようにコートに寝転ぶ大坂さんの姿は、心から「お疲れ様でした!」と労いたくなるものでした!

↓決めた!勝った!大坂なおみさん全米オープン優勝!



まぁ、とかくこの大会、そして最近の大坂さんに関してはテニス以外での戦いがクローズアップされてきました。この日も入場時のマスクには「TAMIR RICE」と記され、米国で警察官らの行為によって命を落とした黒人犠牲者の名前をまとっての入場でした。大坂さんの勝利が見えてきた第3セット中盤には、スタンドに掲示された「Black Lives Matter」の文字を映しながら大坂さんへとカメラを向けるような中継映像も見られ、人種差別との戦いのほうがより注目された向きもあります。

これについてはさまざまな主張があるでしょうし、賛同・反対の両方の立場があり得るとは思います。人種差別を是とするような主張まではさすがにないでしょうが、個別の事象への賛否や、あるいはこうしたアピールをすることに対するスポンサー企業などからの反応はさまざまでしょう。もちろん絶賛もあるでしょうし、逆に遠ざかるような動きもあるだろうなと思います。

ただ、そうしたコート外での喧噪というものが、逆にコート内のことへと集中できる要因でもあったように思います。コート内に持ち込まれるのはラケットとボールだけ。戦うのは対戦相手だけ。それはスポーツと政治との関係性でもあります。さまざまな国、さまざまな主張があり、コート外ではバチバチやり合っているけれども、試合は「それとは別の話」であるという。反目し合っていても、試合は試合として楽しもうじゃないかという。

そしてスポーツの素晴らしいところは、どのような主張を背負っていたとしても、勝者は勝者であるということです。黒人でもアジア系でも強い者が勝ち、勝った者が讃えられる。それは差別とは一番遠いひとつの「理想」を示すものだと思うのです。「そもそもプレーする機会を与えない」とか「いろんな嫌がらせをする」とか「ルールを決めているのは大体白人」とか理想に現実が追いついていない部分はあるにせよ、少なくともこの試合に関して大坂なおみさんが黒人そしてアジア系であることは勝敗とは関係なかったはずです。

スポーツは肌の色という価値感がチームの勝利とは結びつかないことを教えてくれるものであり、同時にそうした人種の違いはそれぞれに違う素晴らしさを備えるという意味で「多様であることの価値」を示してくれるものでもあります。黒人には黒人の強みがあるし、白人には白人の強みがある。もちろんアジア系にもそのほかさまざまな人たちにも。全部の競技を眺めれば、全部それぞれに違うし、それぞれに必要であるという答えしか出てこないのがスポーツが示す多様性の価値です。

それはそれ、これはこれ。

それもいいし、これもいい。

スポーツという舞台がコート外の主張によって侵されることなく保たれていくことは、少なからずいい方向に世界を進めていく助けとなるものだろうと僕は思います。勝者のカッコよさ、敗者の潔さ、国籍の手前にある人種のさらに手前にある「人間」というものを、そのほかの要因を持ち込ませずに感じることができる貴重な舞台こそがスポーツなのですから。そんな舞台を、これからも大切にしていきたいものだなと改めて思います!




強い選手を「同じ国の人だ」という親しみを持って応援できることに感謝!

大坂なおみさん、全豪オープン優勝&アジア人初のシングルス世界1位!「日本」を頂点に連れて行ってくれたことに心から感謝の巻。

07:00
なおみを誇りに思います!

遠い世界の物語であったテニスの天上世界、グランドスラム。その頂点に、日本の心と誇りを連れて行ってくれた選手、大坂なおみさん。狭い日本にとってはまだまだ新しいタイプのアスリートかもしれません。育った場所や暮らした環境が似ていない、ということに日本に住む僕らは不慣れです。けれど、彼女と僕らは同じ日本という国でつながっている。世界のスターであることは承知のうえで、僕らのスターとして一層の強さで誇りたい。大坂なおみが全豪オープンに勝ったぞ、世界ランク1位になったぞ、と。

全豪オープンの決勝、対戦相手はペトラ・クビトバ。左利きの選手ということで、慣れないボールが返ってくるやりづらさがあります。グランドスラムの制覇は都合2回。最高ランクは世界2位。大坂さんも昨年の全米オープンを制したとは言っても、この舞台には格上しかいません。手強い相手です。

そして、クビトバの強さはテニスだけのものではありません。2016年、自宅で強盗に襲われ、利き手である左腕に重傷を負ったクビトバが再びこの場所に立っている。テニスはおろか日常生活を同じように送れるかも危ぶまれた怪我を乗り越えてここにいる、その事実だけですべての敬意をもって相対しなければいけない強敵であることがわかります。簡単に勝てるはずがありません。

↓ここまで来ると偶然や間違いなんて選手は誰もいない!強者だけがここにいる!

勝たせてあげたい気持ちもわくけれど、それはそれ!

テニスの勝負はテニスでつけましょう!



試合展開としては大坂さんが押し気味です。両サイドのワイドへと打ち込むサーブは非常に強力で、ファーストサーブが決まればほとんどすべてがポイントにつながります。ストローク戦に回っても、左右に振って仕掛けていくのは大坂さんで、常に深いところへと打ち込みクビトバの前進を許しません。

第1セット第7ゲームでトリプルブレークのピンチを迎えた際も、セカンドサーブからの攻防でクビトバを左右に振り回し、見事にピンチを脱しています。強打でラクに決めるのではなく、振って、振って、相手を動かしてから「その逆を突くように手元でクッとコースを変えて」仕留める。サーブでもラリーでも得点を奪えるトータルパッケージでの強さがあります。

クビトバのサービスゲームでも、左利きからワイドにスライスしていくサーブにはやや手こずるものの、試合のなかで修正し、第1セット中に「ワイドに逃げていくボールを待ち構えて、逆に相手のバック側へのダウンザラインでリターンエースを奪う」ところまで対応してみせました。

ストローク戦で優位に立つ大坂さんに対して、クビトバとしてはまずサーブで攻めていかないと勝負になりません。大坂さんはそれを待ち構えていることがわかっていても、より厳しいコースへ打ち込んで主導権を取らないといけない。自分の強みで相手を打ち砕く、返せるものなら返してみろ、そんな戦いぶり。「女王」を争おうという戦いだけあって、「退く」というところがありません。

第1セットは互いに一度もブレークを許さずタイブレークまでもつれますが、勝負所で大坂さんはクビトバのワイドへのスライスサーブを読み切ってリターンで仕留め、相手の「強み」ごと打ち砕きました。サーブでもここぞという場面でのエースが生まれ、このセットを大坂さんが取ります。何もないフラットな状態で戦えば大坂さんのほうが強いだろうな、という手応えを覚える見事な立ち上がりでした。

↓このリターン、狙って決めた!タイブレークを制する大きな一本!

タイブレークではクビトバの強みを完封!

全豪優勝、世界1位まであと1セット!


個人競技はどれも孤独なものですが、テニスのシングルスというのは一際そうです。1万人からの大観衆の中心で、2時間あるいは3時間とたったひとりで戦います。コーチから指示や激励を受けることもできず、すべてを自分で律しなければいけない。ミスも、際どいジャッジも、不運も、観衆のため息も、すべてを自分ひとりでじっくりと噛み締めるようにして受け止めなければいけないという厳しさがあります。

サービスゲームは「ほぼ勝って当たり前」というゲームバランスも、心の乱れを生む要因です。「勝って当たり前」と思ってしまっているゲームを落とせば、それは単に1ゲームを失ったというだけではない意味を持ちます。痛恨、悔恨、失着。ミスや不運を引きずって、別のゲームにまで影響してしまう。テニスでよく見られる「流れ」という不思議な現象は、あらゆる名選手を飲み込んできました。

その意味で「何もないフラットな状態では上回る」ことは、必ずしも試合の勝敗とは一致しません。ひとつのプレー、ひとつのミスで心は乱れ、フラットではなくなってしまうのです。ましてやここはグランドスラムの決勝。すべてが異次元であり、「普通」なものなど何ひとつとしてありません。ミスは「普通のミス」ではなく「生涯のミス」であり、不運は「よくある不運」ではなく「天にも見放された不運」となります。ひとつひとつが重苦しい。

そして大坂さんは試練を迎えます。

第2セット、優勢に進める大坂さんは順調にゲームを積み重ねていきます。「第1セットを取った試合は59連勝中」というデータも紹介されました。第2ゲームこそ初めてとなるブレークを許しますが、すかさず第3ゲームでブレークバックすると、第4・第5・第6ゲームもつづけて奪い、第8ゲームを終えた段階でゲームカウント5-3とリードします。

迎えた第9ゲームはクビトバのサービスゲームですが、ネットに当たったボールが相手側に落ちるようなツキもあり、「ここぞ」で狙っているスライスサーブのリターンでのダウンザラインも決まり、40-0とリード。ここからの3ポイントのどれかひとつでも取れば、全豪オープン優勝&世界ランク1位となるトリプルチャンピオンシップポイントを迎えます。

油断や慢心はなかった…とは思いますが、ここまで状況ができあがったことで、大坂さんは勝ちを意識してしまったでしょうか。「サービスゲームを0-40から逆転でキープ」というのはテニスではよくある場面であるにもかかわらず、実際にそれが起きたとき当たり前のこととして受け止められず、急に苛立ちを見せ始めてしまいました。「キープすれば優勝」となる第10ゲームでは、それまでの粘り強いラリーが見られなくなり、一発ですぐに決めたいという焦りの打ち回しが目立ちます。ダブルフォールトを犯した場面ではラケットを足に打ちつけ、ゲームを落とした際にはボールを地面に叩きつけました。

さらに第11ゲームでは、ようやく流れを切るいいプレーとなりそうだったポイントが、クビトバのチャレンジの結果アウトに判定が切り替わるというイヤな展開も。流れを切りたい、しかし切れない。粘るクビトバは、第9・第10ゲームにつづいて第11ゲームも取ると、第12ゲームでは再び大坂さんのサービスゲームをブレークし、逆転で第2セットを奪います。

↓上手くいきそうなときに上手く行かない、苛立ちが苛立ちを呼ぶ展開!

決まったと思ってからのチャレンジでのアウト!

「ラケットを壊したくなる」のはこんなときなんでしょうね!


↓イライライライラする大坂さんをさらに煽っていくクビトバの顔!

口開けてからが予想の倍くらい長いwwww

世界基準の煽りGIFじゃないですかwwwww




タオルをかぶってトイレットブレークをとる大坂さん。ココが女王とそうでない人をわける分岐点だな、と思いながら僕は見守ります。テニスに限らずスポーツ・勝負はえてしてこんなもの。ずっと上手くいくなんてことはありません。女王とか王者というのは、上手くいかないときにそれでも勝つ人のことです。苦しいときでも強いから、ずっと頂点にいつづけられるのです。

確かに第2セットは悔しい展開でしたが、冷静になれば1セットずつ取り合って第3セットに入るだけの話です。「互角」の状況を、さも自分が何かを失ったかのように勘違いして勝手に崩れるようなら、それはそこまでの器だったということ。大坂なおみの器が試される、女王にふさわしい人物かを試される、そんな第3セットです。

第3セット第1ゲーム、クビトバはサービスゲームをキープ。大坂さんはチャレンジに失敗し、ひとつ権利を失いました。まだまだ苛立ちや焦りの色が見えます。しかし、第2ゲームはエースも決まって久々にゲームを取りました。心が苦しいときに強い身体が助けてくれた、そんなゲームでした。

そして第3ゲーム、大坂さんは自らが犯したエラーを、いつものようにうつむいて静かに受け止める「平静」を取り戻していました。そういうこともある、という静けさ。少し時間はかかりましたが、「グランドスラムを逃した」という失意をコントロールして、強い大坂なおみが戻ってきました。このゲームをブレークして優勝&世界一へと再び前進します。

すると動きもガラリと変わって軽やかになり、相手のセカンドサービスを前に出て叩きにいくようないい意味での積極性も甦ります。早く決めたい焦りのプレーとは違う、積極的に奪いにいく攻めのプレー。クビトバの流れを断ち切ると、試合は一気に大坂さんに傾きます。ダウンザラインのショットが次々に決まり、大事なところでのサービスエースも生まれます。ゲームカウント4-2とし、勝利が見えてきました。

第7ゲーム、まるで第2セットの繰り返しのように「トリプルブレイクポイントのチャンスからゲームを取れず」という惜しい場面もありましたが、大坂さんの「平静」は変わりません。静かにうつむいて、受け入れる。悔しくないわけではないのでしょうが、それもまた試合の一部として、一喜一憂せずに淡々と過ごす。それはいかにも「日本的」だなと感じる大坂さんらしさかもしれません。吠えて叫んで強くなるタイプもいれば、静けさのなかに凛として強さが宿るタイプもいる。侍、あるいは撫子。そんな佇まい。

大坂さんの試合になる、それを確信したのは第8ゲームの2ポイント目。すでに二度チャレンジに失敗しており、このセットはあと1回失敗したらチャレンジの権利を失うという場面で、大坂さんはためらいなくチャレンジをしました。「あと1回しかない」という不安よりも、「決まった」という自分の確信に寄り添った勝負のチャレンジ。「自分を信じる」という、当たり前でとても難しいことをこの場面でも遂行できた。これならもう大丈夫。勝ち負けはともかく、もう自分で勝手に崩れることはない。さぁ、この第8ゲームをとってゲームカウント5-3、あと1ゲームです。

クビトバがひとつしのいで、ゲームカウント5-4で迎えた第10ゲーム。第2セットは自らの苛立ちで逃した「サービングフォーチャンピオンシップ」の機会が再びやってきました。1ポイント目、素晴らしいコースへのサービスエース。2ポイント目、この日よく決まっていたフォアハンドのウィナー。3ポイント目、相手のボディを狙って決めた。そして最後の1ポイントは、ド真ん中に打ち込んだ強烈なサーブ。この試合のなかで大きな試練を迎え、それを乗り越えて強くなった「女王」誕生の瞬間でした。

↓大坂さんは叫ぶでも拳を突き上げるでもなく、感極まってうずくまると静かに泣いた!

スタンドの全員が立ち上がるような場面でうずくまる!

そんななおみらしさ、とても愛らしいです!


↓厳しい試合を乗り越えて、「女王」の器を示した日本の大坂なおみ!


ありがとう、なおみ!

日本をそこに連れていってくれて!




メンタルに課題がある、そんな自覚もあるといいます。それを克服したからこその今がある、そんな分析もあります。確かに恐怖や不安を打ち砕いていくような、わかりやすい「強さ」を備えるタイプではないかもしれません。しかし、大坂さんには静かにそれを受け入れる別の意味での強さがあり、それが発揮された決勝だったなと思います。「しなやかさ」とでも言えばいいでしょうか。ミスや不運もあり、それに翻弄された自分もいるけれど、「そういうこともある」と静かに受け入れることができる…曲がりはするけれど折れてはしまわないような強さが。

大会期間中にはスポンサーのCMをめぐって、試合とは無関係な騒動に巻き込まれもしました。そのとき大坂さんが発した「次は私に相談をするべき」というメッセージもまた、しなやかさだったと思います。憤りはあるでしょうし、そのことについては苦言を呈してもいるわけですが、すべてを断ち折るのではなく「私に相談をする」という道を示してくれている。ミスや失敗はあっても、その先にも道があるのだというマインドを、大坂さんがごく自然に自身の性質として持っているからこそ出てきた言葉のように僕は思うのです。

女王は一度なって終わりというものではありません。

今まさに始まり、そしてこれから長くつづいていくものです。強い挑戦者があらわれ、世界のライバルに研究され、ときに強すぎる女王には「負けろ」という反発まで向けられます。その道は孤独で辛いことも多いでしょうが、大坂なおみはそうした試練を乗り越えていくことができるのだと、この決勝の戦いぶりは示していたように思います。不安はありません。そして希望ははてしなく大きい。

心技体のトータルパッケージの強さをもってすれば、もっと大きな夢が見られるかもしれない、今はまだまだ通過点、そう思います。2020年は日本の東京で五輪があります。シュテフィ・グラフ以来の「四大大会と五輪を同年に制するゴールデン・スラム」だってないとは言えない。極めて困難ではありますが、グラフという名前を挙げることを恥じらう必要がない、それぐらい大きな可能性を感じさせる選手だと思います。

選手たちが入場し、帰っていく通路「ザ・ウォーク・オブ・チャンピオンズ」。

壁に掲示されたセリーナ・ウィリアムズやシュテフィ・グラフ、クリス・エバート、マルチナ・ナブラチロワといった歴代の名選手たちの名前の列に、来年からは「ナオミ・オオサカ」が加わります。その栄光が一時のものではなく、長くつづくものになるよう祈りたいと思います。テニスという天上世界を我が事としてともに歩める選手を持てたこと、そのてっぺんからの景色を見せてくれる選手を持てたこと、日本人のひとりとして感謝します!




世界中になおみ、素晴らしい君のその名よ轟け!

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婦人公論 2017年 12/27、1/6 合併特大号

僕は自分が見たことしか信じない 文庫改訂版 (幻冬舎文庫)

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